「…ときに、ユダ族がギルガルでヨシュアのところに近づいて来た。そして、ケナズ人エフネの子カレブが、ヨシュアに言った。『主がカデシュ・バルネアで、私とあなたについて、神の人モーセに話されたことを、あなたはご存じのはずです。主のしもべモーセがこの地を偵察するために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。そのとき、私は自分の心の中にあるとおりを彼に報告しました。私といっしょに上って行った私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は私の神、主に従い通しました。そこでその日、モーセは誓って、「あなたの足が踏み行く地は、必ず永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが、私の神、主に従い通したからである」と言いました。』」
ヨシュア記14章1-9節
イエスキリスト様が私たちの救い主となられるために来られた。でも問題はあなたがこの方をだれと信じ受け入れるか。そして知って終わるのか?共に歩むのか?そこでは全然違う。私たちはクリスマスが過ぎたら元に戻るのではなく、ここからイエス様との歩みが始まるのです。
さて、↑の話はかつてイスラエルの民がエジプトに奴隷として捕らえられ、神様の憐みによって救い出され、ついに彼らの先祖たちに神様が与えると約束していた地に着いた時の話。実際にはまだ相続地は残されていて、相続する人たちが戦いに出て勝ち取って行かなければらない中、カレブという人は勇猛果敢に立ち上がり進んでいこうとします。ちなみにこの時カレブは85歳。85歳の彼が↑のように勇敢に語るのでした。
このカレブという人の生きざまは素晴らしいものがありました。彼の信仰は勇気、忍耐、冒険の信仰という特徴がありました。まず、彼の一族自体少し特殊でした。彼は後にイスラエルの2代目の王で、神様を愛し祝福されていたダビデ王、そしてメシアが誕生すると預言されたユダ族に属しています。実はその生まれは6節に、ケナズ人、エフネの子、とありますが、このケナズ、というのは何者かと言いますと、あの長子の権利をスープ一杯で売り、恨み、後に和解するも、ついてこないヤコブにわだかまりを持つエサウの一族なのです。
エサウの一族はヤコブ・イスラエル一族に対してとてもわだかまりをもっていましたが、その中の誰かがユダ族の誰かと結婚し、その中に入り、イスラエルに加わるのでした。それはヤコブ一族の信じる真の神様に立ち返ったからでしょう。エサウの部族出身ということで苦労はあったかもしれませんが。しかし時がたち、エジプトの奴隷にイスラエルの民と共になってしまいました。その苦しみからか、彼の両親は、彼に「犬」という意味のカレブ、という名前をつけました。周りから犬、犬、と呼ばれてどれだけつらかったことか。イスラエルでは特に犬を汚れたものとしてみられていましたからね。
しかし、彼は先祖エサウのように相手を恨む事なく、また神様から離れ、自分たちの一族に帰ることなく、イスラエルの中に残り仕えるのです。それゆえ、彼は出エジプトし、イスラエルの民が初めて約束の地に近づいた45年前、彼が40歳の時に各部族から偵察隊を出そうとした時、カレブが選ばれたときに誰一人文句を言う人はいないほど彼という存在が認められていました。
ところがその時の偵察においてヨシュアとカレブは、神様が備えていて下さった収穫物を喜び、こんな素晴らしいものを備える神様がいるんだから、確かに巨人のアナク人はいるけど、信仰を持っていきましょう!と神様に従い通したのに、他の偵察隊10人は絶対に無理!と主張しました。しかしカレブは↑にあるように、「私は、私の神、主に従い通し」たのです。たとえ石を投げられ殺されそうになろうとも、「もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には乳と蜜とが流れている」と勇気を持って告白し。
カレブにとって神様は他の誰かから情報として聞いた神ではない、先祖が信じている神様でも、友人が信じている神様でもない、私の真の神様、私の救い主、私をエジプト・罪・闇の世界から贖い出し、エサウの一族でありながらも受け入れ、犬と呼ばれるような自分さえ愛し、救い出して下さった神様は私の全てなんだ!だから必ず、見た目には困難でも、神様がこれを打ち壊し、今偵察地で得たような収穫、祝福を与えてくださる!私は神様がご臨在くださる乳と蜜の流れる地で生きたいんだ!そう願ったのです。
彼は少数派である事を恐れませんでした。たとえ愚かと思われようとも、絶対に無理、年齢的に無理だ!と思われようとも、神様に従い通す勇気を決して失いませんでした。それは、彼が自分の肉の思いに、能力に、肉の目で見える事を見るのではなく、また周りの人が、この問題をクリアするのは無理という言葉に耳を向けるのではなく、「共におられる」私の神様が私に何を約束され、何をおっしゃっているのか、何を見せているのか、そこに焦点を合わせていたからです。
そう肝心なのは、人が何というか・言っているかではなく、神様がどうおっしゃっているのかなのです。聖書でそう言っているか、周りの方の話している中に神様の声を見いだすか、特に何かあるごとに、神様が何と言っているかを知る必要があるのです。
カレブにとって確かに偵察の時も、今85歳になって領地を獲得するなんて無茶・無謀・無鉄砲な話に感じるかもしれない、私たちの日々の歩みの中でも良い時もあれば状況が苦しい時もあるかもしれない。
でも神様は、クリスマスに来られて終わりではなかった。時々何か良いことをする、でもなかった。人々の、私たちの間に住まわれ、ご自身の愛を現していった。それだけではない、一時的な関係ではなく、神様と私たちが和解させていただくために、私たちの罪を身代りに背負い、十字架に架かられ、身代わりに罰せられ、死なれた。そしてよみがえらされたことによって、イエス様を自分の罪のための救い主として受け入れる人を引き上げ、罪の闇から、サタンの手から、暗闇から引き上げ、神様の子としてくださるのです。
イエス様の十字架によって買い戻された私たちは、買い戻されて手放され見捨てられるわけではない、そこから、私たちと神様の新しい関係が始まるのです。救われて終わりではない。イエス様はあなたの罪を贖うために十字架に架かって終らず、そのご隣在の中に招かれているのです。本当のいのちの中に招き入れてくださっているのです。そのためにあなたは買い戻された。神様が本来あなたに備えている完全なる御心のうちに、愛の内に。
神様は、あのクリスマスの日、羊飼いや博士たちをなぜ招いたか、それは、私に会いに来て、声を聴いて、また養われなさい、と、ここにいのちがあるんだ、と招かれたのです。私はあなたを休ませ、また力づけるから、その栄光を見せるから、と。
犬と呼ばれたカレブにさえ目を留められた神様は、あなたをも今日招かれています。神様はカレブに、「わたしのしもべカレブは・・・わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる」と招かれた。今や私たちもこの恵みに、御子イエス様の十字架にあって招かれうけることができるのです。私たちは世が、人が見せる地を求めるのではない、神様の内に、神様が用意してくださる恵みの内に期待をし、歩もう。この恵みを喜んでいただき、歩もうではありませんか。
あなたは御子イエス様によって買い戻されたあなた。なら何歳だろうが、どんな境遇にいようが関係ない。あなたの内にはあなたのためにご自分のいのちさえ惜しまず捨てられたイエス様が今や住まわれ共に歩んでくださっているのだから。大いにこの新しいいのちに、相続地を期待し歩もう。