ー神様の究極の努力?ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「エジプトの地を出たイスラエル人は、第三の月の新月のその日に、シナイの荒野に入った。彼らはレフィディムを旅立って、シナイの荒野に入り、その荒野で宿営した。イスラエルはそこで、山のすぐ前に宿営した。モーセは神のみもとに上って行った。主は山から彼を呼んで仰せられた。『あなたは、このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げよ。あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。』モーセは行って、民の長老たちを呼び寄せ、主が命じられたこれらのことばをみな、彼らの前に述べた。すると民はみな口をそろえて答えた。『私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。』それでモーセは民のことばを主に持って帰った。」

出エジプト記191-8

 

神様は、時々あなたと関係を持つ薄っぺらい関係を望まれない。あなたといつでも一緒にいてその恵みを注ごうとされている。何と素晴らしい話。私たちは御子イエス様にあって結ばれたこの関係の中歩もう。

 

さて、↑は紀元前、かつてイスラエルの民がエジプトの奴隷として捕らえられていたときに、神様の憐みによってモーセを通して救い出され、神様がかつて先祖たちに誓われた約束の地、乳と蜜の流れる地へと連れ昇っている途中での話。神様は、彼らと契約を結ぼう、と語りかけられたのでした。

 

と、その道中を端折ってしまいましたが、イスラエルの民がエジプトを出て45日が過ぎました。神様はその道中において、何もない荒野で毎日マナを与え、水を与え、戦いにおいては勝利を与え、確かに導き、彼らはついにホレブ山、神様とモーセが出会った場所のふもとに到着しました。そして契約を結ぶわけです。

 

それにしても神様が民と契約を結ぶ、と今書きましたが、客観的にこの契約に神様のメリットはありません。だってそうでしょう?どうして神様から勝手に離れていく人間と神様が契約を結ぶ必要があるのか?でも違う、神様にとってイスラエルの民、また罪人が神様の元に帰ってくることほど嬉しいことはない、だから、一方的な恵を持って神様は民と契約を結ぼう、と決めたのです。

 

では、神様はモーセと、またイスラエルの民とどのような契約を結ばれたのでしょう。神様は3つの特権を与えるとおっしゃっているのですが、一言で言えば「イスラエルの民、また私たちは神様の宝の民となる」、ということです。

 

この宝という言葉は、「購入、その他の努力によって、自分の特別な財産としたもの」という意味を持っています。つまり神様にとっての大切な財産とされ、神様と特別な関係を持ち、特別な価値を有する者となるのです。特別なあなただから、神様はあなたへの愛を惜しまない、あなたが危険に、人生の難題、困難にぶつかろうと、これまで翼に乗せて導き守られたように、守るよ、と。

 

努力、面白いですね。今これを書きながら誰の努力か?と思わされた時、人間側の努力ではない。もちろん、私たちも神様に力の限り従う、これも大事なのですが、神様の宝とされるわけですから、神様があなたという宝のために努力、心血を注がれる、というのです。後で書きますが、そのためなら御子イエス様さえ惜しまず与えられる。それ程に神様は私たちに心血を注ぎ合いを実行される、御心を、あなたの上に最善をなしたいと願っている、信じられますか?神様がですよ?

 

だから、2番目の特権として、私、あなたは、神様にとって祭司の王国とされる、ということです。当時の祭司には一つの特別な務めがありました。それはイスラエルが、神様と他民族との間の仲介者となり、全世界にいる他の民族を神様に導くためのとりなしの祈り手にされたのでした。神様の宝であるあなたに神様は恵に恵まれ、さらにその私たちのうちから泉を湧き上がらせ、さらに周りの人たちに溢れさせ、御国が広がり、神様の愛のご支配が広がっていくのです。その時に起こることは私たちには想像つきませんね。そんなの私には無理、と思っても聖霊様が私たちを助けてくださりますから大丈夫です。

 

そして3番目に、聖なる国民とされます。分かりやすく言いますと、罪深いイスラエルの民を、私たちを、契約の血によってその罪を赦していただき、身分の上で、神様のために特別に聖め分かたれた国民・家族にするよ、という事です。どうして?私たちは宝の民だから。あなたが神様の宝だから。

 

なんという恵でしょう。神様は私たちを特別な存在として愛され、特別な、神様の財産とされ、その内に神様の祝福を流し、神様の家族に入れ、さらに神様の恵が私たちの周りにまで広がっていくなんて。神様はそのような恵の中、愛の中に生きてほしい、と願いこの契約を結ぼうとされているのです。

 

別に民が、私たちがなにか良いことをしたからではない、まず神様がはじめにそのご愛を示され、暗闇、悲しみ、痛み、罪の奴隷から開放し、不平不満を言おうとも、それこそ4節、「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来」たように、あなたを守り導きたい、と。

 

私たちに対してもそうですよ?神様であられるのに人となって私達の住むこの地に来られ、殺されかけようとも、病気が移る可能性があろうと、彼らの手を取り、癒やされ、唾きを吐きかけられようとも愛を示し十字架にかかられても、これまでの古い自分ではない、神様が生きて働く新しいあなた、いのちの内に歩んで欲しい、と願い十字架により契約を立てられたのです。

 

これこそが「購入、その他の努力によって、自分の特別な財産としたもの」という究極の努力。あなたのために、御子イエス様を十字架に架ける、どうしてそんな選択ができるだろう。でも、その葛藤の中にあって、それでも神様はあなたを赦し、御子イエス様を身代りに十字架に架け身代わりに罰し死なせるという選択をされた。そして御子イエス様を自分の罪のために身代わりに死んでくださり、なおよみがえられた救い主として信じ受け入れる時、復活されたイエス様と共に私たちは引き上げられ、神様の子とされる、まことの宝とされる、御子イエス様のいのちによって購入、もとい買い戻されたのです。

 

その御子イエス様のいのちによって結ばれた関係が薄っぺらなものと思いますか?そんな薄っぺらい関係を私たちと持ちたいと思うなら、その程度でいいとなら、神様は御子イエス様を差し出されない。時々助けてあげるよ、と上から誰か御使いでも、誰かを通して助ける程度でしょう。しかし、あなたと本物の関係を結びたいから、血の通ったいのち溢れる関係へと引き上げるために、人となって来られ、私たちの罪まで身代りに背負われ十字架で死なれる決断をされ、実行されたのですから。神様とあなたの関係はこのイエス様のいのちにあって成り立っているのです。

 

私たちはもうこのような素晴らしい関係の中にいるのだから、神様を疑うのは辞めよう。いやその前にこの素晴らしい救い、イエス様にある契約を結ばせていただこう、受け取ろう。そして、私たちは血の通った神様との関係の中、力の限り生きよう。「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と神様は私たちに訴えた。裏を返せば神様こそあなたに心もいのちも力を尽くし愛してくださっている。イエス様の十字架こそそれではないか。私たちはこの愛に応答し生きようではありませんか。