ー自分で勝手に神を造らないー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない(らないだろう)。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない(造らないだろう)。それらを拝んではならない(拝まないだろう)。それらに仕えてはならない(仕えないだろう)。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」

申命記58-10

 

私たちの多くは別に偶像を造る人間ではない、目に見える偶像は。しかし目に見えない偶像を造りだす。自分のためになる偶像を。それ以上に私たちは神様に自分の理想を押し付け、神様を偶像のように見ていないか、気をつけたい。

 

さて、↑のことばは十戒の一部。以前出エジプト記の方でもこの箇所は分かち合わせていただいたのですが、ふと今日申命記を開いていたときにこの箇所を見て思わされ。このことばは、かつてイスラエル他の民がエジプトに奴隷として捕らえられ、しかし神様の憐みによって救い出され、彼らをとらえていた闇、エジプトは打ち砕かれ、今、かつて先祖たちに約束されていた地にいよいよ到着しようとしている、その直前にもう一度神様は彼らが、私たちが幸せであるために様々な事を語る、そしてもう一度十戒を思い起こさせたのでした。

 

その十戒の2番目に、神様は「偶像を造ってはならない(造らないだろう)」と語られた。偶像。アイドル。心のよりどころとし、それがなければ生きていけないとするもの。まあ先にも書きましたが、よっぽどの彫刻師とかじゃなければ「造る」ということはたぶんほとんどの人はしないと思う。

 

でも、私たちは心の内にそのようなものを置く。それを造って神とする。それは何か自分の役に立ちそうな思想であったり、有名人であったり、パワースポットであったり、なんでも、そこらじゅうにあります。でも、それに対して何だろう、私たちは特別に宗教行為を別にするわけではなくて、「自分のために」役に立つ召し使いとなる神を選び出し、それを神に仕立て上げる。もはや神でもなんでもない、操り人形に。自分の役に立つ物をチョイスしていく。

 

実は彼らは40年神様と旅をしてきていますし、神様の御業もたくさん見てきていますから、神様という存在は知っているんです。だから今更そんなことを言う必要もないじゃないか、と思う。でも、実は最初に十戒が与えられた後、直後に、自分の思う通に神様が行動しないのを見て、自分のためになる神を造れ、とサブリーダーに言い始め、何と拝んだ、という事があったのです。

 

そう、これはクリスチャンであろうとなかろうと起こりえる罠。でももう一度思い出してほしいのは、神様は苦手分野があるんですか?神様はこの天地万物を造られ、すべ治めてくださっている方。また神様があなたを造られ、愛されているんですよ?神様が私たちにいのちを与えて下さった、その大事な事を忘れてはいないだろうか?神様が私たちを思っていないはずがあるだろうか?

 

私たちは神様が自分のために動いてくれる、自分の思う通に行動され、願いをその通りにしてくれることを「求める」。ある意味で偶像と神様をへたをしたら並列に扱う、見てしまう。自分のためになる方をチョイスする。イスラエルの民は神様を知っているからこそ、そのことを特に警告した。事実その先の歴史でこの自分の役に立つかどうかで神様を判断し、切り捨てる、役に立つ物を受け入れる、そういう歩み方を進めて行ってしまった。

 

でももう一度私たちは思い出そう。神様は、自分のために神様を切り捨てたり、役立つ召使のようにしか考えない民を、私たちを見捨てたりはしなかった。むしろ自分のために、私たちの罪・それによる裁きという最大の苦しみを取り除き、神様の子として引き上げ、神様の知っている最大の恵み、最高のあなたとしてくださるために、御子イエス様を私たちにお与えになった。神であられるのに、自分のことを考えず、むしろ人となって、最も弱い形をとり、迫害される事もわかっていて、裏切られる事を分かっていて、それでもその愛を惜しみなく存分に注がれていった。

 

神様は愛するあなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えることができるほどの方です。身代りに罰することさえできる方です。信じられますか?そこまでしてあなたを取り戻された方なんですよ?私たちは自分のためになるものを探すけど、求めるけど、操り人形にしようとするけど、神様はあなたのために御子イエス様を身代りに十字架に架けて死なせてまで、その死んだ神様から離れ闇の中にいるあなたにいのちを与えられた方なんですよ?そこまでして取り戻された神様があなたに無責任にされると思いますか?むしろ神様の子としてくださるんですよ?

 

私たちは神様を神様として受け入れましょう。自分が神なのではない、主権は神様にあります。でもその神様は、私たちに最善の状態にすべく、神の子とすべく御子イエス様をお与えになり十字架にまでかけてくださった。今やイエス様・キリストがあなたの内に住まわれ、働かれる。

もう、神様を偶像と並列にするのをやめましょう。ただただ神様の御心がなる事を大いに期待し、信頼しましょう。御言葉に、祈りに、御霊の声に耳を傾け、神様の計画がなる事を、最善がなる事を祈り求めて行こうではありませんか。

 

神様の願いは3代4代に及ぶ呪いではない、裁きではない、千代にまで及ぶ祝福、途切れる事のない、御国に行くその日まで続く祝福であなたを満たす事です。今日、この恵みを、救いを受け取ろうではありませんか。この恵みの中歩もうではありませんか。