「主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。」
創世記18章1節
私たちは地上の仮住まいに住んでいるに過ぎない。が、しかし私たちはどこか拠り所を持つ必要がある。私たちは誰を拠り所として生きるだろうか。
さて、↑のことばは非常に短くシンプル。この後の話が有名すぎて(アブラハムのもとに受肉前・今から二千年ほど前に人となってお生まれになる前のイエス様と御使いが現れたり、99歳と89歳の夫婦の間に子どもが与えられるという衝撃的な知らせを受けたり、その直後ソドムとゴモラの町が滅びようとしているので、アブラハムが執成したり)あまり目に留められない1言なのですが、実に大事な事が書かれているのです。
アブラハムという人は、以前は偶像を造る地域に住んでいて、そこでは月を神として拝んでいるようなところでした。しかし、彼は月が神、物が神なはずがない、これら天地万物を造られ、私を生かしている神様がいるはず、と求めていたのでした。そんな彼に神様は語りかけ、私の示す地にいけば、大いに祝福する、と約束され、出発するのでした。その後、さまざまな出来事があり、途中失敗はあれど、神様と契約を結び、神様と共に歩んでいました。神様に腰を落ち着けて生活していたのでした。
↑のことばはそんな彼の生活様式がはっきりと書かれています。アブラハムという人は天幕生活を続けていました。当時の建築技術は高いものがあり、ウルやバビロン、ハランの発掘によってそれは証明されているのですが、それらの建築家たちが、王者をしのぐほどの富豪のアブラハムを見落とすはずがなく、おそらく彼のもとを訪ね、邸宅の建設を勧めたことでしょう。しかし彼は大富豪には似つかわしくない、テント生活をしていました。その理由を聖書のほかの箇所では次のように記しています。「彼は堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です」と。
アブラハムという人にとっては、この地上で大豪邸を建てそれを誇るよりも、自分が誉めたたえられることよりも、彼は今神様が永遠に与えると約束されたこの土地を天幕生活しながら、それよりもさらにこえて、永遠の都エルサレムにあこがれ、それを目指してこの地上での生涯を歩んでいるのです。それはどういうことでしょう?
アブラハムはどこに行くのか知らず、この地上においては神様の約束の成就を受け取ることはありませんでしたが、しかし彼の歩みは全能なる神様と契約を結んでいただき、彼は神様に全幅の信頼を置きました。神様は必ず約束を成し遂げてくださる、そう信じ、信頼し、歩んだのです。天幕生活をしながら、いつも神様と身近な関係を持ちながら永遠の都エルサレムの前味を味わいながら。
彼が願っていたのは、まさにそこ。神様が私の内に住まい、その恵みを注いでくださるその生活こそすぐれている、と。やがて彼を花嫁として、天の御国に迎えて下さる神様が、わたしを呼び出し、私の人生をその手の中においてくださった、御目を注いでくださっている。その神様が今私と共にいる、そのことを覚える時に、この世のものが何だ?敵や問題が多い?関係ない、私の内に住まう神様に、私はテントを張り、腰を据え、生きる、歩むんだ、その決断が彼の中にあった。
じゃなければ、彼はこんな苦労が多い、荒野で生きてるよりもっと楽な土地で住もう、そう決断するチャンスはいくらでもあった。ある意味で財産もかなりあったわけですから、自分の好きなように生きる事だってできるし、自分が王のようになって生きる事も出来た。しかし、彼は、神様が自分の内に御心を現してくださる、その歩みを期待していたのでした。私を導いてくださっている神様は、私を愛してくださっている、この天地万物を造られた神様、どんな時であっても共に歩んできてくださった神様、この神様に期待しよう、と。
私たちもそのようにありたいものです。私たちが道が見えなくとも、絶対に離れてはいけないのが、贖い主イエス様の御許であり、ただ聖書ではこう書いているけど私には関係ないよね、とか、神なんていくつもある宗教の一つでしょ?かわらないでしょ?と外から眺めるのではなく、神様のご臨在に近づき、そこで養いを受けるのです。
もう必死である事に疲れた、色んな事があるかもしれない。あれをするのに疲れた、でも決して忘れてはいけない、この神様の元にこそ安息、安らぎ、平安がある、養いがある。だから私たちはいつも神様の元に留まりましょう。あの信仰の父アブラハムでさえ神様の元に留まらなければいけなかった。いやイエス様もそうでした。いつも父なる神様に祈っていたのです。
何より、私たちは、あなたの罪を、悲しみを、全部背負ってまで身代りに十字架に架かられ、身代わりに罰せられ、身代わりに死なれるほどに愛された存在なのです。あなたをそれらの束縛、痛み、悲しみ、何より罪から解放するために、罪の奴隷から神様の子へと引き上げるため、身代わりに罰せられる、そこまでしてでもあなたを取り戻されたのです、神様は。
私たちが偉そうに神様のところに居座るんではない。神様あれして、これして、なんであれしないの?と召し使いのようにするのではない.。イエス様ご自身が十字架で身代りになるほどに愛された、そのイエス様があなたの内に住まわってくださっているのです。しかも、イエス様は救ってやったから終わり、後は好きにして、とは言わなかった。むしろ神様の子としてそのご愛を、取り戻してまで愛そうとされたその御心を現してくださるのです。
あなたがイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るなら、私たちはこの恵みを、いのちを得る。いや、救われて後は好きに生きる、神様にえらそうにあれしてこれして、と命令するような元の歩みではなく、神様の御心の中に、神様の養いの中にテントを張り生きる時、私たちはこの恵みを得るのです。御子イエス様を身代りにしてまであなたを愛されたほどの神様の御心、ご計画が、愛が。
私たちは神様を召使として住まわせるのではなく、私たち自身が神様の養いの中生きよう。御言葉に聞き、祈り、聖霊様の声に導かれ…あなたは神様によって買い戻され、やがてキリストの花嫁として迎えられる存在。虚しい中に、罪の中に、闇の中にいたアブラハムに目を留められたように、そのようなあなたにも目を留め、愛された、あなたをご自身のものとするために御子イエス様のいのちを差し出された、これほど大きな愛をもって養われる神様の中に憩い歩もうではありませんか。あなたの内に、たとえ見えなくとも働かれている神様の御心に信頼し、従い歩もう。
