ー幸いにしてくださる方ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「イエスが、これらのことを話しておられると、群衆の中から、ひとりの女が声を張り上げてイエスに言った。『あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。』しかし、イエスは言われた。『いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。』」

ルカによる福音書1127-28

 

神様を知っているだけでは意味がない。神様は私たちを幸せにしたいと願っておられる。私たちはこれを受け取ってこそ意味がある。あの十字架の贖いを。

 

さて、↑のことばは本当に短いやり取りですが、ある女性がイエス様のなされる奇跡やメッセージを聴いて、ふとイエス様に言った言葉です。まあ、よく有名人の知り合いがいたり、その親だったりするといいね~なんて、それに近いかもしれませんね。近くにいられていいね、とか。

いや、でもこの女性の気持ちはほんとうによく分かります。だって、神の御子たるイエス様が家庭内にいたんですから。うらやましい話ったらありゃあしない。

 

でも、私はそれが決して本当の幸せを、喜びをもたらす事はない、そう思うのです。イエス様自身も、「いや」と否定されていますね。というのも、ただ存在が近くにある、ということを知っているだけでは私たちは喜びを、幸せを得られないんです。確かに、ある意味でイエス様の育ての母となるマリヤはイエス様の最も身近にいることができるという最高の特権を持っていました。ある意味でそれはそれで幸せです。

 

が、それだけではダメなんです。神様の存在を知っている、イエス様の十字架の愛を「知っている」で終わってはいけないのです。イエス様は、「幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです」とおっしゃられましたが、私たちが神様から発せられる恵みを、愛を、御言葉を、信じて受け入れ、従う、そうした生きた交流の中にあって初めて私たちは神様のくださる本当の恵みを、いのちを幸せを受けることができるのです。

 

私たちは御言葉を知っている、で終わってはいないだろうか?いいことばだね、で終わってないだろうか?神様という存在は認めても、神様を神様として受け入れているだろうか?十字架の事実は知っていても、その愛の前に遜り、この十字架が私の罪のために神の御子たるイエス様が受けられた、肉を裂かれ、血を流された、と受け入れているだろうか?私たちは十字架をただの出来事、アクセサリー、象徴程度に見ているうちはこの恵みを受けられない。いや、この神様をどうしていつでも信頼することができるだろう?

 

しかし神様は、私たちが神様から離れ、神様を神様とせず好き勝手に生きている私たちを見捨てられなかった。この断絶されてしまった状態を良しとできない。私たちが神様からの栄誉、恵みを受ける事をせず、ただ死にゆく、滅びゆく、いのちのない偽りのサタンの、世の与える物によって神様の本当の恵みを失っていく私たちを捨てられなかった。だから、私たちの罪を御子イエス様に身代りに背負わせ十字架に架けてまで死なせ、またよみがえらせることによって、和解を図られたのです。どうして?あなたの幸せを願うからです。断絶された関係から、死刑囚から釈放し、和解し、神様との生きた親子関係に招き入れ、幸せにするためです。あなたの神となるためです。

 

あなたの神様になる、ということはあなたに、分かりやすい言葉でいうなら本当の幸せを与えたい、注がれ、養ってくださる、という約束です。

私たちは↑の女性のように他人行儀に神様を、イエス様の十字架を見てはいけない。これはあなたのためになされた神様の愛です。他の誰がどうかなんて関係ない、あなたがこれを受けるかどうか、ここにかかるのです。イエス様はあなたが幸せになる事を願われる。他人行儀なこの女性を無視せず、「幸い」な道をとかれたように、あなたを幸いにするため、何の罪もないのにイエス様は十字架に架かられた。そのいのちにかけて、十字架にかけて、あなたへの愛を誓われたのです。十字架まで背負われたイエス様はあなたの殉教の日も逆境の日も、決してあなたを裏切らず、共におられる。

 

あなたはこの愛を今日受け取るだろうか?私たちは宗教をするのではない、ただこの道を、リアルな神様との関係を、御子イエス様と共に、天の御国に行くまで歩み続けるのです。あなたに注がれる「神のことば」十字架に現された福音を「聞いて」受け入れ、「それを守る」従う「人たちです」。最後あなたが幸せになる道はあなたの決断次第。あなたはこの十字架の前にどう応答しますか?