「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。見よ。わたしは彼を諸国の民への証人とし、諸国の民の君主とし、司令官とした。見よ。あなたの知らない国民をあなたが呼び寄せると、あなたを知らなかった国民が、あなたのところに走って来る。これは、あなたの神、主のため、また、あなたを輝かせたイスラエルの聖なる方のためである。主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」
イザヤ書55章1-6節
神様は、私たちに最高のものをいつでも備えておられる。最高のもので満たしたい。私たちが信用せず、信じず受け取ろうとしないだけで神様はいつでも良きものを備えてくださっている。戦いの中にあっても、順境の日も逆境の日も。主があなたを救いに来られたのだ、この最高のプレゼントを逃してはいけない。
さて、↑のことばはイザヤという預言者を通して神様が語られたことば。当時のイスラエルは、軍事施設を造って他国から防衛する体制を整え、農業と牧畜行、外国との経済の取引や友好関係、これをしっかり持っていたので一応、生活は豊かになってきて、財産も増えていました。しかし、彼らは自分たちを喜ばせる物を神様はくれない、自分の思うおとりにせず与えない神など神ではない、と神様から離れていました。神様なんて信じたって何の役に立つの?それより現実を見ようよ、と。神様抜きの国を建て上げて行くのでした。
そんなものですから、本来神様の憐みによって守られていたその国が崩れようとしていた。当時最強と言われていたアッシリヤ帝国によって危機に瀕していたのでした。そんな彼らに向けて↑のように神様は語られるのです。
↑を見ると、何やらすごいですね。金を払わないで、無代価で、これらの物を受けよ、と神様は語ります。穀物も、ぶどう酒も、乳も、ただで、無代価で、受けよ、と。金もない者もある者も。あり得ない話。今の時代で金銭なしで、なんてあり得ない話。でもね、神様の恵みは無代価で示されるものなのです。いや、もっというと、穀物もぶどう酒も、乳も、ってぶどう酒は私たちにはなじみがないかもしれませんが、これらすべては彼らにとって生活の必需品なのです。
神様はね、当時の北イスラエルの王たちが、現実問題神様に頼ってたって何になるの?と頑張って頑張って得ようとしていた全てを神様は与えて下さる神様なんです。生活の必要、食物、着る物、守り。イエス様も、明日の心配は無用、食物のことで、着る物のことで心配しなくていい、とおっしゃられたように、神様は私たちを丸ごと養われる神様なんです。
私たちは神様がくださるものを疑う。その価値を。神様なんて信じたって何の役にも立たないだろう?そんなことよりももっと努力しなきゃ、とか存在もしない偽神に、思想に救いを求めに行く。でも、神様は私たちの丸ごとに関心を持っておられる方。あなたを愛し造られた方なんです。産まれる前からあなたを見て養い育ててきてくださった方なんです。
あなたの体の精密さをよく見てください。これが偶然できた体だと思います?ただ人の営みの結果だけでなるものですか?神様があなたのためにその身体を造り上げてくださったんですよ?神様が、あなたにいのちを与えて下さったんですよ?神様はあなたに最高の御心を、ご計画を持っておられ、あなたに良き者で満たしたいのです。全ての場所において、私たちの目に逆境に見える日であっても順境に見える日であっても。アダムとエヴァに最高のエデンの園を用意し、神様ご自身がその園を潤しておられたように。何か努力した結果ではない、まず神様ご自身がその愛を、恵みを注がれているのです。
ただ、私たちは神様から離れ、そんなものは価値がない、と切り捨て神様から離れて行った。このただで受けられる神様が用意されておられる最高の恵みから離れて行った。ゆえに、イスラエルの民の当時のように霊的なアッシリヤ、サタンの手にとらわれ、彼と共に裁きに向かっていく、死に向かっていくしかなかった。ところが神様はそれでも私たちを見捨てることができず、諸国の民の君主として、御子イエス様を送られた。でも、それは仕える王だった。仕える主だった。民のために、愛するあなたのために、私たちが支払わなければならない罪の代価、裁き・死を、何の罪もないのに背負われ十字架に架かられ身代りに罰せられ、死なれた。
そしてよみがえられたことによって、私たちは神様と和解させていただき、神様の子とされ、神様との生きた交流が回復され、いのち溢れる者とされたのです。罪も死も、病も痛みも、あなたの重荷もかの十字架によって打ち砕かれ、神様があなたの内に現されるその栄光によってすべては良き者に造り変えられていくのです。
この恵みは、なぜただなのか?すでに御子イエス様のいのちによって支払い済みだからです。神様のあなたへの愛は、御心は、御子イエス様のいのちという名の代価が支払われているからこそ、私たちは受けることができるのです。私たちに必要なのは、ただで受け取りに行くという、悔い改め、神様のところに立ち帰る事、それだけです。
神様は、「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ」とおっしゃられた。私たちはこの十字架によって示されたこの機会を逃してはいけない。神様と和解させていただいたこの素晴らしい関係をむげに御手はいけない。私たちは誰を、何を求め歩むだろうか?今日という日、いや日々主を求めよう。主の栄光が、御心があなたの内に成される事の素晴らしさを、御子イエス様の十字架ゆえに結ばれた神様の約束、契約をただただ追い求め、御言葉に聞き、祈り、また従い歩もう。