ー何を求めて生きるのかー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』そこでイエスは、彼らに言われた。『祈るときには、こう言いなさい。「父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。」』また、イエスはこう言われた。『あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、「君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ」と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。「めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。」あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。』」

ルカによる福音書111-13

 

イエス様は私たちに祈ることを教えられた。つまりは私たちに祈る事を赦されている。なんと感謝な事だろう。私たちの祈りは聞かれているか聞かれてないのかわからないような神社で捧げられているような虚しい祈りではない。確かに生きた神様が私たちの祈りを聴いておられる。

さて、↑の話は、神の御子たるイエス様が人となってお生まれになり、歩まれていたある時、弟子たちが祈りを教えてほしい、と願い出たところから始まります。そこで、イエス様は主の祈りを教えつつ、↑のように一つのたとえをされました。

 

当時は旅人をもてなす習慣がありましたし、暑いので夜到着することもしばしば、さらに冷蔵庫なんてありませんし、しかも灼熱の砂漠の国ですから食べ物を次の日まで残しておくことができないので、彼は友に助けを求めたわけです。しかしどういうわけか、この家には備えられていたのです。彼らの習慣は、保存ができないのでその日の分はその日に食べ、明日の分は明日備えます。でも彼の手元にはあったのです。

 

どうして?実は彼はいつ旅人が訪ねてきてもいいように余計に旅人をもてなものを備えていたのです。もし誰も来なかったら無駄になるかもしれない、でも誰かが頼ってきたならすぐに答えられるように、用意はされていたのです。いつ来るかも分からない人のために食料をわざわざ残さないで、この友は食べればいいのに、あえてその食料をとっているのです。

 

そう、神様は私たちが求めることを待っておられる、あなたにパンを与えたいと先に用意して待っておられるのです。いつ頼ってきても良いように。頼っていない間でさえ、あなたを思い、必要な物を用意されているのです。

 

よく考えますと、前半の主の祈りで、「天にまします我らの『父』よ」と、子が父に求めるように祈るようにと教えておいて、子供が何か必要があるのに、父親が、それこそこのたとえ話に見るように無視したり、子供が困ることをするはずがないのです。もし神様がそんな方だったら、私たちの命を惜しんで、ご自分の御子イエス様を十字架になど架けなかったでしょう。神様が私達を愛しているから、御子イエス様を十字架に架けたのではありませんか。

 

もっというなら、弟子たちが「しきりに願うなら」という言葉は正確には、恥も外聞も捨てて、メンツを捨てて、恥知らず、という意味があります。むしろ友のために必死に、真夜中、自らが恥じさらしになることも覚悟の上で頼んできても断るなら、それこそこの友人こそ恥知らずです。でも神様はそんな方ではありません。ただ純粋に、あなた方の、あなたの、求めを断るような「恥知らずの神様」ではないんだ、応える神様なんだ、とイエス様は、祈りの文言だけではなくその祈りを聴かれる方について教え、祈る素晴らしさを教えたのです。

 

神様はあなたのためにすでに備えているのです。真夜中という私たちの苦難の時でもあなたのために動かれるのです。しかも、明日のためにとっておいた中から少し分け与えるのではない、彼に必要な分を必要なだけ与えたのです。

 

私たちなら、そんな面倒をかけないでくれ、こんな時間に来て何を考えているんだ?と思いたくなるでしょう。もしくは今それどころではない、私は悲しくて仕方ない、あなたのことを考えている余裕なんてないんだ、そう答えざるを得ないかも知れない、でも神様はそうはおっしゃらない、喜んであなたに必要な物を十分に与えたい、そう願われるのです。

 

イエス様はあなたの身代わりとなり十字架に上られ罰せられることを選ばれました。あなたのために恥も外聞も捨てて、神の御子であられるのに人となる道を選ばれ、人を愛する道を選ばれ、罪もないのに、私たちの身代わりとなる事を恥ともせず、十字架に架かられ死なれることを選ばれたのです。

 

この関係において、私たちは父なる神様と親子関係が結ばれ、祈ることが赦される。更には私たちは聖霊様という新しい助け主が与えられる。必死に祈って与えられるのではない、イエス様の十字架ゆえにもう私たちに与えられている。すでにその恵みによって与えられているのです。神様からの最高の贈り物が御子イエス様のいのちと共に既に与えられているのです。御子イエス様の十字架における父なる神様への切なる必死の私たちへの赦しの懇願ゆえに、これを受け入れた私たちに既に与えられているのです。

 

イエス様は、この聖霊様の働きを祈ることを主の祈りと共に据えられて教えられた。赦されて終わり、ではなく。御霊によって歩む、聖霊様によって歩むように、と。聖霊様は、私たちがにっちもさっちもいかない中、もうどうしたら良いのかわからない霊的な戦いの中、試練の中、聖霊様が信仰を支え、励まし、疲れ果てどうしたら良いかわからず倒れた時には元気を回復させ、力を与え、慰めを与え、助けを与え、援護者としてそばに立たれるのです。その道を導かれるのです。あなたの全ての必要に届くよう、あなたの全生涯にわたりご臨在してくださり、私たちの内にその御力を現されるのです。

 

別に神様はあなたの必要を求め続け努力し続けなければ与えない神様ではない、神様は私たちにいつでも最大最高のものを渡せるように準備し備えてくださっている。その最高の贈り物、それはイエス様の十字架の贖いによる救いとともに、私たちの内に聖霊様が住まわれ、その御力を現すこと、それこそ神様からの最大の贈り物なのです。あなたの全生涯に渡り神様のご愛、栄光を表したい、御力を注ぎたいと、いつでもパンを、聖霊様を私たちに与えられるように待っています。それこそ、あなたの扉を叩き続け、あなたの生涯を委ねてくれないだろうか、と。みなさんはこの促しにどう応えるでしょう?

 

あなたがイエス様の御名によって父なる神様に祈る時、そこから新しい神様とあなたの関係が始まって行く。この扉はもう、主の十字架によって開かれた。今日私たちはイエス様に祈り求めよう。あなたは何を今日、祈り求めますか?