「…サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着させた。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、身にはよろいを着けさせた。ダビデは、そのよろいの上に、サウルの剣を帯び、思い切って歩いてみた。慣れていなかったからである。それから、ダビデはサウルに言った。『こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです。』ダビデはそれを脱ぎ、自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。そのペリシテ人も盾持ちを先に立て、ダビデのほうにじりじりと進んで来た。…ペリシテ人はダビデに言った。『おれは犬なのか。杖を持って向かって来るが。』ペリシテ人は自分の神々によってダビデをのろった。…ダビデはペリシテ人に言った。『おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。』…ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。…」
Ⅰサムエル記17章37-52節
私たちは何には神様がおられる。神様が味方であるならどうして私たちは恐れる事があるだろう。私たちは神様がどれだけ素晴らしい方なのか、この事を日々覚えていたい。
さて、↑の話は昨日の続きになりますが、紀元前の話で、イスラエル王国が建国され、初代の王サウルが今ペリシテ軍と戦おうとしている場面。彼らとは因縁の相手で、長年にわたる戦いとなっていた。そんな戦いの最中、ゴリヤテという巨人(2m86cm)がイスラエルの前に立ちはだかり、民も、百戦錬磨の王もなすすべを失っていました。神様はいるのに彼らはそのことを考えずにいた。
そんな民も王も恐れる中、ダビデという羊飼いが兄たちのところを尋ねてきた際、神様をののしりイスラエルをも苦しめるゴリヤテと私が戦います、と訴えます。しかし、兄たちも王たちも、自惚れるな、と神様が今戦おうとしているのにもかかわらず、自分たちで何とかしよう、神様なしで頑張ろう、とうぬぼれ、ダビデを退けようとします。しかし、それでも神様が戦われるから大丈夫、と訴えるダビデにサウル王が折れてたたかうことを許可する所から↑は始まります。
闘いに出るダビデに、サウル王は、では自分の武器防具を、と渡します。しかしダビデはそれが重すぎて使うことができず、自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にしてこの巨人に立ち向かっていくのでした。
それにしても、昨日の箇所で、兄たちがダビデに自惚れている、と言っていましたが、いくらなんでもその装備はないでしょう、という感じがしますよね。相手は巨人。剣も鎧も何もかも持っている相手。そんな石で何をする、というのでしょう。羊に襲い掛かる獣とはわけが違うのに。
ただ、私は先日の子どもの病気の時も思ったのですが、このことは神様の領域ではない、そんなのに頼っている暇なんてない、これは医学の世界とか、親としてあれしてこれして、と考えて神様を抜きに物事を進めようとする傾向とすごく似ているな、と思ったんです。まあそれで昨日今日とこの箇所を選んで分かち合っているのですが。
この戦いにこの武器は向いていない。これまでダビデが使ってきた武器がこの戦いでは役に立たない、と考えなかったように、私たちがこれまで神様と共に生きてきて、導いてくださっているのに、この事においては役に立たないから、と別な道具、武器を取ろうとする。そして立ち向かおうとする。でも、それって自分の武器を過信・昨日の表現を借りるなら、自分のその経験の武器に対して自惚れていないだろうか。
ダビデは、これまで神様がこれまでも守ってくださっていた、というその経験の石を持っていた。だからこそ、今回も変わらない。神様が戦われるのなら、いや神様がここでもその御心を現してくださることを信じ委ねたのです。ただ石を取ったのではない、神様に従う、という決断、自分のうぬぼれの心という石を放棄して、神様に従うという石を彼は取ったのです。
マックスルケード牧師は、ダビデの取った石は、神様との記憶の石、信頼・祈りの石、主の御名が刻まれた石(神様のものとされたという)、継続の意思の石、姉妹兄弟の石と表現しましたが、ようするに、私たちは神様という最大の味方を持っているのです。持っているという言い方は神様に失礼でしたね、神様は私たちを愛し、ご自身の栄光を、愛を、御心を現したい、その神様に従う時、神様のその御力があなたの内に現されていくのです。
私たちは、本来神様に味方してもらう、愛をいただく資格などない。なかった。だって、私たちは神様を捨てたのだから。勝手に。しかし、私たちを見捨てられず、罪、サタン、病、そうした霊的な巨人・ゴリヤテに打ちのめされるのが我慢できなかった。自分で立ち向かおうと頑張って、苦しみ続けている私たちを放置できず、ダビデの代わりに御子イエス様を送ってくださったのです。このイエス様が私たちの罪の代価、死を打ち破るために、サタンを打ち破るために、身代りに十字架に架かられ、死なれ、またよみがえられることによってサタンの力を打ち破った、死の力を打ち破った。あなたの病も内傷もすべてこの十字架上に身代りに背負われたイエス様の死と復活によって打ち勝たれた。
このイエス様を救い主としてあなたが受け入れる時、この救いの石を取る時、私たちは神様のもの・子とされる。今のあなたの陣営、戦いは、いやあなたの人生そのものは神様のものとされ、神様があなたの内に生きて働かれご自身の御心を、御力を、現し、励まし、強め、共に戦ってくださるのです。世の終わりまで。
私たちはこの救いの岩、イエス様があなたと共にいる、最高の石を持っている事を忘れてはいないだろうか?このことはイエス様に頼ったって何になる?と神様を見くびっていないだろうか?自分の力を過信・自惚れてはいないだろうか?もっと私たちはこの救い主イエス様に祈り、またその御声を聴き、また御言葉に聞き、助けを求めよう。神様の御心がなることを存分に期待し祈ろうではありませんか。
私たちはゴリヤテのように、神など役にたたない、と言って神様を呪い、別の神を求め、別な偽神・自分の栄光のために戦うのをもう辞めよう。ダビデのように自分の過信や経験、その他さまざまな鎧や盾を私たちは脱ぎ捨て、ただイエス様を着よう。主の方法で私たちは戦おう、歩もう。あなたの道を、あなたを整えるのはあなた自身ではなく神様です。私たちがとるべきは、たった一つの石でゴリヤテを打ち破ったように、イエス様という石一つで十分です。このイエス様に信頼し従う、イエス様と共に生きるという決断をもってこの石を取ろう。主はあなたを圧倒的な勝利者へと導かれ、最後は天の御国にあなたを凱旋させ、勝利の栄冠をかぶらせてくださる日が必ず来るから。