ー引き裂かれたイエス様、悲しまれる神様ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「その後、兄たちはシェケムで父の羊の群れを飼うために出かけて行った。それで、イスラエルはヨセフに言った。『おまえの兄さんたちはシェケムで群れを飼っている。さあ、あの人たちのところに使いに行ってもらいたい。』すると答えた。『はい。まいります。』また言った。『さあ、行って兄さんたちや、羊の群れが無事であるかを見て、そのことを私に知らせに帰って来ておくれ。』こうして彼をヘブロンの谷から使いにやった。それで彼はシェケムに行った。…彼らは、ヨセフが彼らの近くに来ないうちに、はるかかなたに、彼を見て、彼を殺そうとたくらんだ。彼らは互いに言った。『見ろ。あの夢見る者がやって来る。さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。』…ヨセフが兄たちのところに来たとき、彼らはヨセフの長服、彼が着ていたそでつきの長服をはぎ取り、彼を捕らえて、穴の中に投げ込んだ。その穴はからで、その中には水がなかった。それから彼らはすわって食事をした。彼らが目を上げて見ると、そこに、イシュマエル人の隊商がギルアデから来ていた。らくだには樹膠と乳香と没薬を背負わせ、彼らはエジプトへ下って行くところであった。すると、ユダが兄弟たちに言った。『弟を殺し、その血を隠したとて、何の益になろう。さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが彼に手をかけてはならない。彼はわれわれの肉親の弟だから。』兄弟たちは彼の言うことを聞き入れた。そのとき、ミデヤン人の商人が通りかかった。それで彼らはヨセフを穴から引き上げ、ヨセフを銀二十枚でイシュマエル人に売った。イシュマエル人はヨセフをエジプトへ連れて行った。…彼らはヨセフの長服を取り、雄やぎをほふって、その血に、その長服を浸した。そして、そのそでつきの長服を父のところに持って行き、彼らは、『これを私たちが見つけました。どうか、あなたの子の長服であるかどうか、お調べになってください』と言った。父は、それを調べて、言った。『これはわが子の長服だ。悪い獣にやられたのだ。ヨセフはかみ裂かれたのだ。』ヤコブは自分の着物を引き裂き、荒布を腰にまとい、幾日もの間、その子のために泣き悲しんだ。彼の息子、娘たちがみな、来て、父を慰めたが、彼は慰められることを拒み、『私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい』と言った。こうして父は、その子のために泣いた。…」

創世記37章12-36節

 

イエス様は、私たちがいのちを得るために、予めその犠牲となられ十字架に架かられ死なれた。私たちの身代わりに。その時の父なる神様の思いはどれだけだっただろう。どれだけ悲しかったことか。それでもあなたを救われる事を選ばれた。この愛を前にあなたはどう応答するだろう。

 

さて、↑は昨日の続きになりますが、紀元前、まだイスラエル王国が誕生するよりもはるか昔の話。イスラエルの基のアブラハムの子、イサクの子、ヤコブ(彼は神様によって名前がヤコブからイスラエルへと変えられた)一家の話。

 

しかし実はちょっとこの過程が複雑で、お母さんが違ったり、お父さんが特に年老いて生まれたヨセフへ偏愛だったりで、兄たちはヨセフに対して強い嫉妬心を持っていたのでした。そんな中、ヨセフに見せた神様の夢に対して、余計に兄たちは腹を立てたのでした。こともあろうに、兄たちや父母までもヨセフの前にひれ伏す日が来る、というのですから。

 

そこでヨセフがお遣いで兄たちのところに来たところで殺そう、という動きが出た、それが↑なわけです。とはいえ、昨日も書きましたが、実はイスラエルを世界的大飢饉から救い出すべく、ヨセフを用いる、という計画(実際に上でイシュマエル人を通してエジプトに売られますが、そのエジプトで神様の導きの元、一度は奴隷、囚人にまで陥れられるも、総理大臣にまで昇りつめ、彼らを救うという)があった。

 

しかし、彼らは彼らを救おうという神様のご計画に対して、事もあろうに反発するだけではなく、殺そうとまでするのでした。知恵ある兄弟ユダによっていのちは守られましたが。ただ、イスラエルの民がこれから迎える大飢饉から守られるためには、救われるためには、神様が遣わしたヨセフがエジプトに売られなければならなかった。この彼故に彼らは救われていく。全て神様は導かれていった。

 

神様は、時に不思議な事をなされる。ヨセフを通してイスラエルを救っていく。なぜそんなことを?と分かりづらい事もある。でも神様は、私たちが生きるためなら何でもする。「ご自分を犠牲にしてでも」。

 

今日、この箇所を読み返していた時、神様はどんな気持ちでイエス様を遣わされたのだろう、人として送られたのだろう、と思わされた。神様は、私たちを救うために、私たちを愛するがゆえに、ヨセフの代わりに、御子イエス様を遣わされた。彼らの様子を見てきてほしい、と。監視するためではないですよ?神様は彼らの苦しみを知っているから、それでも彼らの内に愛を注ぐべく、遣わされた。彼らが父ヤコブではなく神様から離れ生きている彼らに愛を注ぐべく。私たちに愛を注ぐべく。

 

イエス様は神であられるのに人となって生まれる。遣わされる。信じられない決断。兄たちがヨセフを恨んだように、イエス様を彼らが裏切る事など知っていた。それでもそんな彼らの内にイエス様を遣わしたのはどんな気分だった、気持ちだったんだろう。切実なる思いだったろう。でも、兄たちが心配だったヤコブ以上に、私たちが神様のいのちの内から離れている事の方が父なる神様はもっともっと心配だったのです。

 

兄たちは自分たちが愛されていない、と思う。私たちも神様に愛されていない、私の事なんか気にかけてくれていない、そんな風に思う、でも神様はあなたの事を心配し、気にかけてくださっているのです。でも、それ以上に私たちが後に来る飢饉、というか神様との永遠の断絶、裁きから免れるためには、イエス様は売り渡され、父なる神様との断絶、死が必要だったのです。↑で売り払われたのは、あなたがいのちを得るために売られたのはイエス様に他ならない。長服に血を架けられたのはイエス様の十字架の血に他ならない。あなたのために神の御子としての長服を義とられ、血を流されなければならなかった。

 

あなたのために、あなたがいのちを得るためには、イエス様のいのちが必要、あなたが滅びないために予めイエス様が売り渡され、身代わりに十字架に架かられ、死なれたのです。

 

ヤコブはこの悲しみに誰の慰めも受け付けなかった。イエス様を十字架に架けた時、神様はどのような思いだったのだろう。黙示録ではこの裁きの最中は誰も受け付けない面会謝絶状態にあったことが記されています。それでも、あなたが救われるためなら、イエス様の内に裁きの十字架がなされている最中、立ち入らせられないほどの思いで降されていた。どれだけ苦しかったか、それでもあなたがいのちを得るならば、と最後までその手を止めなかった。

 

やがてヨセフはエジプトで総理大臣に引き上げられ、彼の基にイスラエル一族は招かれていった。私たちもこの先に示された十字架の愛によって私たちは神様の子、家族へと招かれる。あなたをその本来の姿、神様の子としての恵みの中に、いのちの内に招くために、神様は御子イエス様を遣わし、十字架にまでかけてあなたを愛される決断をされた。ここにいのちがある。神様とのライフラインが切れるという飢饉が、裁きが来る前に、このいのちを受け取ってほしい、と。

 

私たちは神様は私の事を気にされていない、愛していない、と神様を疑って離れていないだろうか?しかし神様はあなたにさえ目を留め、あなたにいのちを注ぎ、ベストを備えてくださった、御子イエス様と共に。じゃなければ、あなたを救う計画など、御子イエス様を犠牲にする計画など立てない。今日、私たちはこのいのちをいただこう。そして父なる神様の元に帰り、この恵みの内を喜び味わい歩もうではありませんか。今やあなたは御子イエス様のいのちにあって神様の子とされ招かれているのだから。