ー神様ご自身に心を留めるー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ヤコブは、父が一時滞在していた地、カナンの地に住んでいた。これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、彼の兄たちと羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らといっしょにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。イスラエルは、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。それはヨセフが彼の年寄り子であったからである。それで彼はヨセフに、そでつきの長服を作ってやっていた。彼の兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった。あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。ヨセフは彼らに言った。『どうか私の見たこの夢を聞いてください。見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。』兄たちは彼に言った。『おまえは私たちを治める王になろうとするのか。私たちを支配しようとでも言うのか。』こうして彼らは、夢のことや、ことばのことで、彼をますます憎むようになった。ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、『また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです』と言った。ヨセフが父や兄たちに話したとき、父は彼をしかって言った。『おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私や、おまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか。』兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心に留めていた。」

創世記37章1-11節

 

神様が私たちを造られた。神様にとってはあなたは愛する子。神様はあなたの内にご自身の愛を注ぎたいと願っている。それを私たち自身が受け取る時、そこから神様の栄光(御心)があふれる。あなたはあなたを導かれている方がどれだけあなたを愛しているか、知っていますか?

 

さて、↑は紀元前の出来事。イスラエル王国がまだできる前のイスラエル一族の話。まだその基となる、アブラハムーイサクーヤコブ(イスラエルと神様によって名前が変更される)、その12人の子どもたち(それに女の子が1人)、そんなまだ初期のころの話。そんな中、そのヤコブの息子の一人、ヨセフという青年にある時神様は夢を見せました。神様はこれから先に起こることをあらかじめヨセフに夢によって語られた。

 

ちょっと話は脱線しますが、神様は様々な形で私たちに語られる事がある。おおよそは、聖書から。しかし祈りの中でだったり、誰か(牧師とか誰か友とか)を通してとか、何か試練の中で語られる事もある。神様は、沈黙される神様ではなく、語られる神様であるという事を覚えておきたい。

 

話しは戻しますね。ヨセフは父が年取ってから生まれた子であり、格別に偏愛されていました。それによって兄たちに彼はねたまれ、また↑を見るとわかる通り、何年か前にはやったことばのKYな部分も少しあったようで、兄弟たちから妬まれていました。そんな中で、神様は、やがて彼の前に兄弟たちがかしずく日が来る、もう一つの夢に至っては、父と母でさえ、彼の前にひれ伏す日が来る、という夢を見せたのでした。

 

聖書にあまりなじみのない方のために少し解説をしますと、実はこの後ヨセフは兄弟たちにねたまれ、エジプトに奴隷として売られていきます。そして、彼は奴隷、さらに濡れ衣から囚人として捕らえられ、どん底に陥るのですが、神様のお計らいによって助けられ、ついには総理大臣になります。そして総理大臣として、その後イスラエル一族をも巻き込む世界的大飢饉から救い出す、その中で彼らが彼らの前にひれ伏す日が来るわけです。

 

若いヨセフはこの夢の内容についてそんな先まで具体的には分からなかった。ただ、これはただごとではない、普通の夢とは違うと感じ、口から出たのかもしれない。彼はこの夢の内容が何を意味するのか、この時は分からなくても、それでもその喜びを分かち合わずにはいられなかったのでした。彼は神様が何かを見せてくれている、そのことを喜んだのです。まあ、そんなことをいったら兄弟たちをますます傷つけるのでは、ねたませるのでは?と思いたくはなりますが、KYと言われるかもしれませんが、ただ、神様の語られたことを捻じ曲げるよりはよっぽどまし、と私は思う。

 

時に↑のヨセフに見せたように神様は私たちに不思議な事を語られる時もある。そのような中を通させるときもある。しかし、神様は、最初にも書きましたが私たちを愛し造られた方です。神様はあなたという人に、私たち一人一人に対して計画を持っています。私たちを造られて、後は好きに生きなっと投げ出すような方ではない。生まれた赤ちゃんを後は好きに生きなっと投げ出す親なんていないでしょう(まあ、たま~~~にいるのが残念なところですが、ただそれはそれで何かしらの事情や苦渋の決断があっての事、と私は信じたい)?神様は、私たちを養い導き、我が子として最高のものを用意してくださっているのです。

 

自分の目には不思議な事、今は分からないことかもしれない。しかしだからと言ってこの世の価値観、自分の価値観でそれを捻じ曲げて、神を信じたって何にもならないじゃないか、とか、それはあり得ない話だ、と対立してはいけない。神様のご計画は、時には試練を通らなければいけないこともある。それこそ、彼がこの後、先に書いた苦労を通って行きますが、その中で神様は彼の内に働き整えられ、そうして神様の御心が彼の内に現れて行った、最高の彼となった(肉的には総理大臣、霊的には神様のいのちの内を歩む者)、神様の祝福の中で生きていくのでした。

 

この夢の前に兄弟たちは反発し、父は(母は分かりませんが)「心に留め『ていた』」。私たちはどうだろう?神様の愛の前に反発する者になっていないだろうか?それはあり得ない話、と私の思いとは違う、と離れていないだろうか?それとも、一瞬だけ心に留めて忘れるものになっていないだろうか?父ヤコブ・イスラエルは「留めている」とあるように、何かがあるに違いない、と心に留めていた。

 

彼らには3者三様の反応がありましたが、あなたはどうだろう?↑の夢の話は直接的には確かに私たちには関係ないかもしれない。しかし、私たちは神様の真実の愛を疑い、捻じ曲げていないだろうか?神様は、イスラエルにやがて訪れる最悪の状態、何も食べる物もなくなる大飢饉から救い出すべく先にヨセフを遣わしたように、私たちが神様などいなくたって生きていけると好き勝手生き離れ、馬鹿な話と拒否していた、そんな私たちが神様の養い、いのちを失い、やがて滅びゆく事を我慢できずに、御子イエス様をあらかじめ人として生まれさせ、また生きさせ、ご自身の愛を惜しむことなく注がれた。私たちが通るべき苦難を背負われ、私たちの痛みも病も、何より罪も全部背負われ、十字架で身代りに架かられ死なれ葬られた。家族から引き離されたヨセフのように、神様から引き離され。

 

しかし、総理として引き上げられたように、私たちも御子イエス様が復活されたことによって、この十字架の愛を馬鹿げたこととして考えるのではなく私のこととして受け入れるとき、私たちもまたこの素晴らしい復活の恵みに与り、神様の子とされるのです。イエス様は神であられるのにそれを捻じ曲げて人となってでもあなたの前に来られ、救いを得させ、いのちを与えたいと来られた。それを荒唐無稽とあなたは思うか?捻じ曲げてこの愛の価値を下げていないか?この愛は荒唐無稽でもなんでもない、夢としてではなく現実の神様の愛です。ここから、ヤコブやヨセフの歴史ならぬ、あなたと神様の歴史が始まる。復活の主、あなたのためにいのちを投げ出すほどのイエス様があなたと共に歩まれ、導かれ、その御力を、御心を、愛を、ご栄光を現される歴史が始まる。

 

今日、あなたはこの福音に、神様の愛にどう応えるだろうか?