(9月6日未明の北海道大震災で被災をして22)
「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」
ルカによる福音書15章4-7節
私たちは本当に幸せを、救いを、暗闇からの脱出を願い試みる。探す。どれだけ多くの人がこれを求めているか。でも実は神様の方からあなたを探しに来られた。あなたを救いたいがために。
9月6日未明に起きた北海道大震災。ただ地震が起きただけではすまず、ある人は家を失いある人は家族を失い、ライフライン断絶とブラックアウトによってさらに想像以上の傷跡を残した。今日28日にようやく激甚災害に指定されましたが、指定されたから傷がいやされるわけではない。結局癒すことができるのは神様だけ。
私も震度の差はあれど突然のブラックアウト、ライフラインの断絶に呆然とした。東日本大震災でもっと大きな震度を経験しましたし、物資の不足も体験した、でも情報断絶やライフラインの断絶はさすがになく、自分たちがどんな状況にあるのかさえ分からない、電力もいつ戻るのか、回復するのかもわからない、そんな状況に本当に呆然としました。
そんな中、どこから助けがあるのか?それはやはり神様からだった。神様は私たちが道を見失わないように、御言葉をいつも語り心を整え、平安を与えて下さった。また具体的な必要も整えてくださった。いつ回復するかわからない中にあって、神様は何もしない神様ではなく、私たちを探しに来られ、助けて下さる、形だけで息もない死んだ存在もしない偽神ではなく、まことに生きておられる神様が具体的にその御手を動かされた。何より、↑の箇所が私に与えられ、本当に大いに励ましになったのでした。
それは、神様が捜しに来てくださる、という事。捜しに来る、ということは、私たちを心配しているからに他ならない。私はこの神様の御思いに驚かずにはいられない。たった1匹の迷い出た羊。それは財産ですよ?でも、神様は数いる羊の1匹に過ぎないとは考えずに、そのたった1匹を神様にとっての大切な財産と考え、これを失うことは忍びない、と他の99匹を置いてでもその1匹を探しに来られたのです。捜されたのです。
神様は私たちが暗闇の中で彷徨っている事を見過ごせない。でも、ただ遠くで見ているだけ、見守っているだけ、の神様ではなく、具体的に「捜しに来る」という行動を、その愛のゆえに起こされる神様なのです。私たちは神様、あなたはどこにいるのですか?と捜し求める。私を見捨てたのですか?と。でも神様の方がむしろ私たちを見捨てることができず、捜しに来られたのです。
別の聖書箇所にはこんな御言葉があります。「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができようか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている」と。
神様の愛は神様のうちで沸き返り、胸が熱くなっている。↑のことばも、今直前に挙げたことばが語られた当時も、いずれも神様から離れ、見捨てられてもおかしくなかった。でも神様はそれでもどうして見捨てられるか、あなたが捕囚にあい、囚われている事をどうして我慢できるだろうか?と訴えるのです。
そしてその行動を具体的に神様は現された。ご自分の御子イエス様を、人として私たちの間に住まわされた。人として生まれさせ、生きさせた。そして絶望下にある人たち、悲しみの中にいる人たちを尋ねて行かれた。そして彼らの具体的な必要に答えて行かれた。時に癒され、時にその道を示し、神様の愛を、福音を届けて行った。この私たちの現実にまで来られたのです。
でも、イエス様がなされたのはそこでは終わらない。イエス様は私たちの罪によって神様と断絶されてしまっているこの最も悲しむべき状況を、暗闇を、ライフライン断絶を回復させるため、この暗闇を、罪を、死を打ち砕き、和解させるため、癒すため、回復させるため、私たちの罪を身代りに十字架に背負われ、身代わりに死なれ、身代わりに罰せられたのです。私たちが滅びゆく事など我慢できない。その内にふつふつと燃え上がる愛を、憐みゆえに、私たちが神様にある喜びを得るために、御子イエス様のいのちを身代りにすることを選ばれた。あなたがそうしていのちを得るなら、それこそが神様にとっての至福の喜びであるから、と。あなたをサタンの手に引渡し、滅びゆくことをどうして我慢できるか、見捨てられるか、と。
私たちは神様はどこだ?神様はなぜ何もしない?と思うかもしれない。しかし神様はあなたを今日も探しておられる。神様の愛を、御心をあなたの内に現したい、あなたの内に喜びを現したいと、あなたが悔い改め返ってくるのを待っておられる。神様は、あなたという一人の存在を大切な財産、宝と考えておられる。あなたというたった一人のかけがえのない存在に、御子イエス様と共にすべてのもの、神様の天にある全ての祝福をもってご自身を注ぎたいのです。
神様は今日もあなたを探しておられる。待っておられるどころじゃない。あなたにその御目を注がれ、その御手を伸ばされている。もうすでに私たちが支払うべき罪の代償はイエス様のいのちによって支払われた。すでにその和解の道は整えられている。ここに私たちのいのちがある。今日私たちは主に立ち返り、いのちを得よう。ここからあなたの回復が、神様の御心の姿への回復が、本来神様があなたに立てておられる計画への回復がなされていくから。