ー笑いで満たされる日ー(9月6日未明の北海道大震災で被災をして21) | とある働き人の聖書のお話

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東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

96日未明の北海道大震災で被災をして21

「主がシオンの繁栄を元どおりにされたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。『主は彼らのために大いなることをなされた。』主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。」

詩篇1261-3

 

神様が私たちと和解を果たされる時、私たちは回復する、繁栄が元通りにされていく。笑いが満ち溢れる日が来る。自分で一生懸命そうするんじゃない、神様が共にいてくださる中でそのようにしてくださるのだ。なんと感謝。

 

9月6日未明に起きた北海道大震災。この日、地震の影響でライフラインも絶たれ、情報も絶たれ、あらゆる意味でのブラックアウトが起こった。ある人は家が失われ、仕事が失われ、また家族を失った人もいる。私もこの震災で規模の差はあれど被災し、周りを見ていると気づいたのは、笑顔が失われていた。情報も何もないしどうなるかわからない、職場でも、いや私自身も事務の方から「まことさん、笑顔笑顔」と余裕のない顔になっていたそうで。どうしたらいいのかわからず、笑顔が消えた、良く分からない心の状況でひずみができて笑いがなくなっていた人も多くいた。いや、今でも震源地付近を含め、多くの人がそうだ。いつ回復するのか?冬が迫る中で仮設住宅に入れるだろうか?様々な思いが錯そうして本当の意味での笑顔を得るのはいつのことになるだろう。

 

そんなことを考えながら思い出されたのが↑の詩篇。私の中で本当に喜びを与えられた詩篇の一つ。そう、私たちを回復させてくださるのは、他でもない、神様なんだ、と。しかも口には笑いで満ち溢れさせ下には喜びの叫びが溢れるようにされる、というのですから。

 

↑の状況は、バビロン捕囚から解放されイスラエルに帰って来た民が歌ったものです。イスラエルの民はかつてはとてもすばらしい神殿があり、また神様によって祝福され、とても栄えていました。ところが徐々に民の心は神様から離れ、ついには王国は分裂し、北イスラエルはアッシリヤ帝国に、南ユダはバビロニア帝国によって捕囚に合いました。彼らは屈辱と侮辱の日々を送っていたわけですが、しかしとうとう、バビロニア帝国をペルシャ王国が打倒し、クロス王が宗教寛容策をとったことによってイスラエルの民が自分の国に帰ることが赦されたわけです。

 

こうしてシオン、つまりイスラエルの繁栄が元通りにされたとき、民は夢を見ている者のようであった、と詩人は歌います。私たちも苦労から、苦難から解放されると、喜びからか、夢見る者のようになるでしょう。それならなおのこと、70年もの間捕囚され、時にいのちの危機のときだってあった彼らならなおのこと。また、70年もの間、子供の時に連れられてきた人は70歳をもう越えているわけです。人生の大半を苦しみの地で過ごしてきた彼らにとっては最高の喜びだったでしょう。

 

この夢見る者、という言葉がいまいちぴんと来ないかもしれませんが、他の訳を見ると、慰められた者のよう、とか、強い者たちのよう、回復した者たちのよう、と訳されています。面白いですね。まとめると、彼らは夢を見ているかのような、また慰められて力づけられたような、そうして強められた者のような、そして回復したような者のような状態に、彼らは暗闇、悲しみから変えられたのです。

 

それは誰によってですか?ペルシャの王、クロスによってですか?いえ違います。主、神様によってです。聖書のほかの箇所には次のようにあります。「主はペルシャの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は国中におふれを出し・・・」と。つまり、神様ご自身がペルシャの王をふるわせ、感動させて、解放させた、というのです。

 

そして、彼らは「笑いに満たされ、舌は喜びの叫」ばずにはいられない状態へと変えられていきました。なんとすばらしいことでしょう。神様が絶望の色を塗り替え、希望に変えてくださったのです。神様が彼らを丸ごと。

 

しかもこの言葉はそれだけに実は留まらないのです。満たされ続けるでしょう、ということばで原語ではかかれています。1回状況を変えてくださっただけではない、これからもずっと主が自分たちの口がいつも笑顔でいられるようにされるだろう、と信じ、期待して歌ったのです。また、「主は彼らのために大いなることをされた」といい続けるでしょう、と。賛美の言葉にあふれ続けるでしょう、と。

 

彼らは罪故に捕囚に合い、しかし自分の力ではない、誰かではない、神様が一方的に私たちを愛し、ただ一方的にその恵みによって私たちの罪の身代わりとしてイエス様を十字架にかけられ、罪あがなわれ、赦されたものとなった今、これを信じ受け入れる時、この巡礼者たちの預かった恵みを私たちも受けるのです。そうして彼らの・私たちの告白は、「主は彼らのために大いなることをなされた」から、「主は“私たちのために”大いなることをなされ、私たちは喜」び続けるだろう、と「私」の喜びの告白へと変わっていったのです。喜び続けるだろう、と。

 

神様は、あなたという一人の人を回復させるため、本来の繁栄・世的な繁栄ではなく、神様の子として本来受けられるはずであったその神様のすべての、天にある全ての祝福に満ち溢れるはずだったあなたに回復するべく、私たちの罪の汚れを洗い流すべく、あなたとい人のために、御子イエス様を身代りに十字架に架け、その血を流させ、身代わりにいのちを差し出された。あなたが本当の笑顔で満ち溢れるため、あなたの口が喜びの叫びで満ち溢れるため。

 

でもそれは一瞬で終わるものではない、イエス様を救い主として信じ受け入れる時、そこからあなたの回復は続いていく。主が共に住まわれ、あなたの内に栄光を現していくから。それが被災地であろうと、苦難の中であろうと、殉教の日であろうと逆境の日であろうと。

 

↑の詩は、「巡礼者」として都に上る、神様の元に帰って行く詩です。私たちはこの都に、神様の神殿に、神様ご自身の内に住まわせていただく時、私たちは喜びに満たされるのです。そのとき主があなたの内に住まわれ、ご自身を現されるから。私たちはこの主の元に住まおう。神様はあなたを本来あるべき姿、罪の奴隷としてではなく和解された神様の子としての関係をあなたの内に持ち現したいと今日も待っている。今日、主の元に帰り、主に信頼し歩もう。必ず、あなたの顔が笑顔に、口が喜びの叫びに満ち溢れる日が来るから。夢を見ているかのような、また慰められて力づけられたような、そうして強められた者のような、そして回復したような者のような状態に、彼らは暗闇、悲しみから変えられることを信じて。