(9月6日未明の北海道大震災で被災をして16)
「見よ。祝福せよ、との命を私は受けた。神は祝福される。私はそれをくつがえすことはできない。」
民数記23章20節
神様の祝福を、御業を私たちは覆す事はできない。何物も覆す事はできない。だから私たちはもっと神様に大いに期待しよう。神様に勝るものは何もないのだから。
9月6日未明の北海道で起きた大震災。そしてその後に起きた日本初のブラックアウト、この両者による情報寸断とライフラインの断絶。私も東日本大震災で今回私が被災した震度4強よりはるかに大きい震度5強を経験したけど、それでもライフラインは生きていたし、情報も入っていた。でも今回は震度とは別の大きな問題がのしかかってきた。今は多少なり回復してきていますが、家や家族を失った人、この震災で仕事や何やらに大きな損害を受けて長期的な戦いになる人たちもいる。TVではもう扱いは小さくなってますが、復興復旧なんてものはそんな簡単なものではないんですよね。私も様々な人とこの震災で愛、また話をし、接しましたが、気づかない傷を受けている人も実は少なくはない。
こういう傷って、体験したこともない問題って本当に重くのしかかるんですよね。こうしたら大丈夫、という目に見える方法はなかなかない。震災に限らず、私たちはそうした場面に直面する事って本当に多くあると思う。周りは大丈夫大丈夫、というけど、本人にとっては?と。
そんなことを考えていたときに↑の御言葉に出会った、というよりも以前もこの箇所をもう少し長い範囲で分かち合いましたが、それを神様がもう一度思い起こさせてくださった。去年の年末辺りに開いた箇所なのに神様のその約束は時間が経とうと変わらなかった。
それは、「すでに神が祝福されたものを、私(なにものも)は変えることができない」(新共同訳)ということ。こんな経験したことのない出来事に遭遇しても、この約束は変わらなかった。
↑のことばは、昔イスラエルの民がエジプトの奴隷として捕らえられ、闇の中にあった時、神様がイスラエルの民を憐れみ、救い出し、彼らの先祖たちに誓われた約束の地に向かっている最中の出来事。彼らを狙う敵国がこのイスラエルを呪ってほしい、と言われたバラムという人が言った言葉。
呪うために出て来た、しかも王直々の要請。王から直接頼みに来る、ということはまあそこそこ力があったのかもしれない。一応金も名誉もこれが成功すれば得られるかもしれない。しかし、彼は呪う事は出来なかった。神様が祝福する、としたものを、神様が祝福している彼らを呪い滅ぼすことなどできなかった。神様がその御手を伸ばされているところを、何者も闇で覆う事などできなかったのです。著名な占い師だろうが、力ある王の命令であろうが、神様の前にこれを覆す事などできない。
ここで視点を変えるなら、驚くべきことに彼らイスラエルの民の上に神様の御手があり、また祝福があった。その彼らを神様は守ってくださっていた、という事です。彼らの旅路には多くの苦難があった。これまでもエジプトで本当に最悪の状態にあった。多くの敵との戦いもあった。でも、神様を自ら捨てて離れて行った、その祝福などいらない、私はもっとこっちが良い、と言って捨てた、離れて行った民以外はこうして守られ、今約束の地にたどりつこうとしている。
神様の愛は、約束は先行している。私たちが気づかないだけで。彼らの前にいつも神様は毎日マナという食べ物を届けてくださり、また敵からも守り、衣服は擦り切れる事がなかった。モーセというリーダーは旅が終わって召されていく日まで元気だった、というくらい衣食住保障されていた。いつも神様は雲の柱、火の柱を彼らの前に置かれて彼らの道を照らし、保証していた。ただ、彼らがその神様の祝福に信頼するかどうかの話なんです。
こんな神様など信じて何になる?と人は疑う。今のこの状況に対して神様を信じているよりも、まずあれしなきゃ、これしなきゃ、と神様のその御手が伸ばされている事を疑い、彷徨い疲れ果てる。でも、神様はイスラエルの民のその全行程を祝福し導かれようとされていたように、私たちの今のこの状況の中にあってさえも神様はその御手を伸ばされている。神様はあなたの内に御心を働かせようとしてくださっている。それを覆せる、神様のその愛より優れたものはない。私たちを覆う悲しみも、襲い来る問題も、神様のあなたへの愛、ご計画の前にはあなたを打ち倒す事などできない。
神様は、神様を疑い離れ、神様を神様とせず、あなたに愛を注ごうとされる神様などいらない、と存在を消そうとし、ある意味で殺す。そんな私たちを神様は見捨てず、あなたの罪を赦したい、と私たちが背負うべき、支払うべき刑罰、死を、神の御子たるイエス様に身代りに背負わせ、身代わりに罰し、身代わりに死なせた。それ程に神様は私たちを愛している。そんな神様の愛を覆せるほどの愛がどこにあるだろうか?そこまでする神様の愛からどうして離れて行くことができるだろうか。
祝福せよ、と神様はバラムにおっしゃられた。ここにいのちがあるんだから、ここに生きよ、これを覆したところであなたの命がどうしてより良い物になるだろうか?神様のこの祝福を、愛を覚え、この中に帰れ、そう神様はバラムに訴えていた。まあここで祝福しても後で結局金に目がくらんでイスラエルに敵対するんですけど。
私たちはこの神様のご計画から、ご愛から離れる必要なんてない。なぜなら捨てに御子イエス様にあって、あなたにその愛を注がれているのだから。御子イエス様にあって和解されたなら、もはやあなたを神様から引き離すものは何者も存在しない。
「見よ。祝福せよ、との命を私は受けた」。私たちはこの神様の愛を、ご計画の前にNOという者となるか。それとも、Yesと答え、十字架の前に帰り、この神様の新しいいのち、祝福のうちに生きるか?神様を否定し生きるか、それとも神様の愛を肯定し、受け入れ、神様の民・子としてのいのちの内を歩むか?今日も神様の御手はあなたの内に伸ばされている。これを信じるか信じないかはあなた次第。
あなたを覆う罪は御子イエス様の十字架によって洗い流された。あなたを覆う病や問題は捨てに十字架によって打ち勝たれた。今日、私たちはこの神様の御手の中、愛の中歩もう。「すでに神が祝福されたものを、私(なにものも)は変えることができ」ません、主よあなたの内を歩ませてください、と告白し歩もうではありませんか。
(祈り)ああ主よ、どうかこの被災地に、また悲しみの中に疲弊しつかれている人たちの内に、また神様にある希望を知らない人たちの内に、あなたの光を照らしてください。あなたの祝福を覆すものは何者も存在しません。今日、私たちが信のいのち、光であるあなたの内を歩むことができますように、あなたにある真のいのちを得ることができますように。