ーどん底にもあった一滴の水によってー(9月6日未明の北海道大震災で被災をして2) | とある働き人の聖書のお話

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東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

96日未明の北海道大震災で被災をして2

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中『おまえの神はどこにいるのか』と私に言う間。私はあの事などを思い起こし、私の前で心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」

詩篇421-5

 

昨日に続いて9/6未明に起きた北海道大震災で被災中、真っ暗闇の中で心に迫ってきた御言葉が↑の詩篇。

 

今回、被災した中で、震源地から少し離れた帯広でも北海道では大きな規模の地震にあいました。しかし、これくらいの規模なら経験があると思っていた中、停電に見舞われ、今まで安全の道しるべとなっていた信号は停止、ライフラインの停止、職場では水もわずかしか出ずトイレは流せず、通院が必要な人も通院できなかったり、安全を守るコールもならない。今まであって当たり前、というものがことごとく失われてまいました。家の中でもTVはつかないので情報が入らない…人の目から見たら本当に絶望下にありました。

 

しかし昨日も書きましたが、この暗闇の中にあって神様は光を灯してくださりました。物理的な光はない。でも、私を養われる神様、私を造ってくださった神様がいること、これが私たち一家にとっては大きな希望となりました。

 

実は↑の詩篇はよく、森林の中に流れる川から水をごくごく飲んでいるイメージが強いのですが、実はとんでもない話で、この詩篇がよまれた場所はそんな場所ではありません。荒れ地の中にあって、崖の底にある一滴の水を、周りに敵がいる、そんな状況の中で命がけでわずか一滴の水を求めて行く、そういうことを詩人はよみました。どうして?鹿は喉が渇くと喉がひっついて呼吸ができなくなるから死ぬんです。だから、一滴の水を命がけで求めるのです。

 

この詩人は鹿ではありませんが当時、バビロン捕囚によって遠くに連れ去られ、苦難の生活を強いられていました。詩人が歌うように、魂が思い乱れるほど。うなだれるほどに。国は捕囚によって失われた。一体どこに助けを求めたらいいんだ、ライフラインはどこにあるんだ?全く知らない土地に来て捕囚民にどれだけの権利があるだろう。

 

しかし、彼は知っていた。彼のライフラインは、命の源は、どこに自分がいようとも、神様にある、と。神様とのライフラインは途切れてはいない。この何にもないように見える荒地、危険ながけ、敵が周囲にいようとも、いのちを、魂を脅かす恐れや不安、サタンの誘惑、ありとあらゆるものがあろうとも、この神様が養ってくださるんだ。人の目に見たらわずか一的にしか見えないかもしれない。しかし、神様のうちにある命の泉は彼の魂の底からいのちを湧き上がらせてくださる、そう信じて彼はこのライフラインをつかみに行くのでした。かつて彼が見てきたイスラエルと捕囚地のギリギリの辺りまで近づいて。

 

「おまえの神はどこにいるのか?」これは、色んなところから聞きます。周囲の神様を信じない人からとか。今目の前に囲んでいる苦難の状況とか。でも、この叫びは私たちの底からくる。この苦難の中で神様あなたは何をしているんですか?あなたはどこにいるんですか?と。

 

良いんです、そう叫んで。ただ忘れてはいけないのは、神様は私たちとのライフラインを切らせない、ということ。これは神様の方から伸ばされている。あなたのために、何もないところにあって光を灯し、いのちの泉を与えて下さるのです。それはいろいろですよ?

 

私も今回、あらかじめある人を通して義両親にランタンが渡り、それが私たちに届いたり、食料が分け与えられたり、予め職場でもらっていた食料だったり。神様はイエス様を通してこうおっしゃっていた。「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。……あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」と約束されていたことを、昔だけにとどまらず今もなしてくださっているんです。

 

物理的な話だけではない、あらかじめ関東大震災を体験した方の証を数日前に聞かせて下さったり、東日本大震災の時に書かれた牧師の体験記も近くにあった、何より聖書があって、その御言葉が私の内に励ましを与えた。いやそれだけではない、神様は祈りというホットラインを通して私たちに希望を与えて下さった。何より、御子イエス様の十字架によって私たちの身代わりに死なせ罰せられた、なお復活されたことによって、神様と途切れてしまったライフラインを復旧されたのです。でもこれはそれこそ↑の詩人の告白のように求めなければ、このいのちの泉が必要だ、と悔い改め罪の赦しと和解を求めてイエス様の十字架の元に行かなければ得ることはできない。行けばすでにイエス様のいのちによって支払い済みなのでただで受けることができるのです。

 

私たちは今日、イエス様にあって結ばれたライフラインにすがりつき歩もう。イエス様は物理的にも霊的にも私たちを養ってくださる。「もし誰でも、渇いているなら、わたしのもとに来て、飲みなさい!わたしを信じる者は、聖書が言っているように、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」から。

 

(祈り)ああ主よ、どうか今もなお被災し苦しんでいる人たちに、思い悩む人たちに、あなたのまことのいのちがあふれ流れますように。全ての必要が、慰めがありますように。あなたの愛が共にあり、あなたというまことのいのちの泉を得ることができますように。