「ついで、イスラエル人の全会衆は、エリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入った。そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。イスラエル人は彼らに言った。『エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。』主はモーセに仰せられた。『見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。六日目に、彼らが持って来た物を整える場合、日ごとに集める分の二倍とする。』」
出エジプト記16章1-5節
神様はある時は備え、ある時は備えない、そういう神様ではない。神様はいつもあなたを養いたいとその恵みを注がれている。私たちはこれを喜び集めに行かなければならない。
さてかつてイスラエルの民がエジプトに奴隷として捕らえられ、しかし神様の憐みによって、エジプトから脱出させていただいたイスラエルの民。しかし1月も経ち、エジプトから持って来た食物がなくなり不平不満を言うのでした。これなら死んだ方がましだ、あの時はもっとよかった、このときはこうだった、と。まあ、私たちにはよくある話です。
そんな時神様は彼らのために、マナという特別な食べ物を送ると約束覚ました。夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りると約束され、何より、神様ご自身、彼らの神様であることを知らせる、と神様ご自身の養いを約束されました。そして、間髪を入れず、その約束を実行に神様は移されました。
よくよく考えれば、イスラエルの民は当時約2-300万人。それを用意されるというのはどのくらいの時間がかかるか。しかし、それを約束されたその日にすぐに送るという事は、神様の力、恵みは尽きる事がなく、またいつでも準備万端である、と言えるでしょう。神様は彼らの生涯を、火の柱、雲の柱を持って導いているのですから、彼らが求めれば、いつでも応える準備はできているのです。私たちに対してもそうですよ?神様は準備はできているのです。この時、というタイミングで神様がマナを与えたように、最善のタイミングで神様は最善を与える。それを私たちが求めるか否かです。
そういうわけで、神様は約束通り、その日の夕方にうずらを、300万人の民のための食料として与え、さらに翌朝にはマナを与えました。うずらというのは、その地方一帯に生息するもので、神様が南風、東風を特別に吹かせ、彼らの望む肉を与えました。
しかしマナは違いました。これは、彼らの不平不満から出たものではなく、神様が彼らを養うために備えたものでした。それは人の想像をはるかに超えるもので、白い霜のように細かく、うろこのように細かい物、またコエンドロの種のようで白く、その味は蜜を入れたせんべいのようで、かつクリームのよう。さらに多く集めたのに割り当ての分量だけになり、少なく集めても足りなくなることはなかったという事を考えますと、マナは神様が民を養い育てるために毎日備えられるものなのです。約束の地にイスラエルの民が着いて自分たちで収穫できるようになるまで。
そういう意味で約束の地が天国の型なのですから、マナはやがて私たちが天の御国に行くまでの神様の養いの象徴です。神様は出エジプト・十字架の血潮によって私たちを贖い、罪の世界から救い出されてから天の御国に行くその日までは毎日このように養ってくださります。それは山上の垂訓でイエス様が語られたように、着るものや食べ物、そして私たちが生きていくために必要な霊の糧、御言葉、また御力をくださります。毎日毎日。それも各自に必要な分、おなかを満たし一日歩むものを備えてくださります。
神様は私たちを養うために、毎日私たちのために、またあなたのためにマナを天より下らせてくださります。それは御言葉の中であったり、祈りの中で語りかけて下さるかもしれません。神様は安息日はともかく、毎朝これを集めに行くように、と命じられている通り、まとめてではない、今日、あなたのために語られ、力を注がれるのです。あなたの今日の必要のために。そして神様の素晴らしさを私たちが知り、神様と歩めるように与えられているのですから。
私たちはぜひ、日曜日だけと言わず、毎日マナを集めに出ましょう。それが腐る前に。神様の御前に。私たちが求め集めに行くとき、食べる事ができる、私たちのうちに入り働くのです。今日はマナはない、と考えず、呼び求め、マナを頂きましょう。預言者エレミヤはこう預言しています。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」(33:3)。その時、イスラエルの民がこれはなんだ?とマナを見て驚いたように、私たちに神様の語るその言葉に、力に驚かされるのです。主はあなたが集めに来るのを待っておられます。
神様はあなたが疑う、何もないと思う時にもすべて準備万端あなたのために必要な全てを備えて下さっている。イエス様の十字架にあって取り戻されたあなたをどうしてみ離すことができるだろう?主の備えはいつでも準備万端、あなたを喜びに満たすため、いのちであふれさせるため、その十字架の前で今日も待っている。主の元に行こう。いのちを今日、得よう。
最後に、彼らに神様はこれらのマナを一部、壺に入れるようにおっしゃられた。「それを一オメルたっぷり、あなたがたの子孫のために保存せよ。わたしがあなたがたをエジプトの地から連れ出したとき、荒野であなたがたに食べさせたパンを彼らが見ることができるために」。私たちはこの喜びを持ち運び歩む、その時本当に生きた者となる。神様の栄光がさらにあなたを通して現されていく。この真のいのちを持ち運びながら今日も主と共に歩もう。