「彼がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。」
申命記17章18-19節
神様は「あなたのために」「あなたの幸せを願って」語られる。語られている。これは他人事ではない、あなたのためだ。この事を忘れてはいけない。
さて、↑のことばは、エジプトの奴隷状態から、神様がモーセを通して救いだし、かつて先祖たちに与えると誓われた地を目の前にして、モーセを通して神様が導かれたことばです。まあ、正確には王についての記述なのですが、これ、私たちにとってもとても大事な話なんです。
神様はモーセを通して↑のように語った。それは、律法、今でいうなら分かりやすく言うなら聖書、これを自分のために、自分で書き写して、一生読み続けるように。これを守り行うことを学ぶように、と。
これを読んでいると本当にすごい話ですよね、一生読み続けるべし、ということは、ある一時だけ役にたつ何だろう、知識的な物ではなく、一生涯あなたのためになるものである、と。そして自分の手元に置く、ということはどのような場面であっても神様のことばは必ずあなたを生かす、と知ることができますよね。
特に上のことばは王に向けて語られたことばですから、政治、経済、また戦い、あらゆる問題山積なわけです。しかし、その中において神様のことばが役に立たない時などない、分野などない。神様があなたを導くのだから、あなたの道しるべ、道を照らす光としていつでも持っているように、そう訴えているわけです。そしてなによりそれは「自分・あなたのために」なるのです。
どうも私たちが忘れやすいのは、神様はあるあなたの一時だけに関りたいわけではない。神様はあなたそのものを丸ごと愛しておられる。いつでも共におられ、あなた自身をいのちのうちに、そのそばにいたいのです。あなたそのものがいのちを持ち、そのいのちの内に歩んでほしい、そう神様は願っておられるのです。神様と私たちの関係は他人事ではないのです。神様からあなたに示されたその御手をあなたがとるか否か。信じるか否かなのです。
だから神様は、ご自分の御子イエス様のいのちを差し出された。最も身近な存在となるために人となって来られた。私たちが神様から離れ、神様を悲しませるような歩みをし、神様など他の神々の一つ的にしか考えない、自分の役に立つか否かで切り貼りするような私たちの罪を身代りに背負われ、十字架に架かられ身代りに死なれてまでも、あなたをご自身もとに引き寄せようとされたのです。
王の王たるイエス様が、↑のように神様に頼りもしなければ身近に歩まない、自分の都合のいい時だけ神様を「利用する」、そんな私たちを見て、王として見捨てるのではなく、むしろ私たちの神の御子が最も身近なところに来られ、手元と言っていいほどのところまで来られ、共におられる。また語られ、あなたをいのちの道に満ちかれるのです。あの十字架を指し示しながら。↑のことばをまさにイエス様ご自身が実行されたのです。あなたの幸せを願って。一生あなたとともにあり、なお死して後天の御国にまであなたと共におられるため。
私たちは今やイエス様の十字架にあって王、とまで言わなくとも神様の子とされ、神様の身近な存在とされた。私たちはもう、神様から離れてはいけない。あなたの最も身近な宝であるこの福音を握りしめ、これは誰かのためのものではなく、あなたのための愛、救いとして信じ受け入れ、歩もう。あなたの王は、御子イエス様は、あなたのためになるならと、ご自分のいのちさえ惜しまず身代りに十字架に捧げられた方だ。この方が語られる御言葉を、御心に期待し歩もうではありませんか。あの福音は、この福音は誰かのためでもない、あなたのため。あなたの王としてあなたを、ご自分のいのちさえ惜しまず与える方が、あなたの内に住まわれ治められ、養われ、導かれるから。ただこの方に信頼し歩もう。