「少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。その日、エリは自分の所で寝ていた。―彼の目はかすんできて、見えなくなっていた―神のともしびは、まだ消えていず、サムエルは、神の箱の安置されている主の宮で寝ていた。そのとき、主はサムエルを呼ばれた。彼は、『はい。ここにおります』と言って、エリのところに走って行き、『はい。ここにおります。私をお呼びになったので』と言った。エリは、『私は呼ばない。帰って、おやすみ』と言った。それでサムエルは戻って、寝た。主はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、『はい。ここにおります。私をお呼びになったので』と言った。エリは、『私は呼ばない。わが子よ。帰って、おやすみ』と言った。サムエルはまだ、主を知らず、主のことばもまだ、彼に示されていなかった。主が三度目にサムエルを呼ばれたとき、サムエルは起きて、エリのところに行き、『はい。ここにおります。私をお呼びになったので』と言った。そこでエリは、主がこの少年を呼んでおられるということを悟った。それで、エリはサムエルに言った。『行って、おやすみ。今度呼ばれたら、[主よ。お話しください。しもべは聞いております]と申し上げなさい。』サムエルは行って、自分の所で寝た。そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、『サムエル。サムエル』と呼ばれた。サムエルは、『お話しください。しもべは聞いております』と申し上げた。主はサムエルに仰せられた。」
Ⅰサムエル記3章1-11a節
返事というのは実に大きな意味合いを持つ。それは自身の決断が伴うから。その時どう返事をするか、それは私たち自身を導く。ならば私たちの神様への返事はどうだろう?私たちが神様の語りかけに、「はい」と従う時、私たちの内に神様の御心が豊かに働く。
さて、↑の話は紀元前。イスラエル王国が建国される数十年前の話。後にイスラエル王国初期の時代までを支えていたサムエルという士師、神様に仕えイスラエルを導く役割のサムエルの幼少期の話。恐らく当時彼が12歳ぐらいのころのことと思われます。彼の母親が神様に祈り、彼が与えられ、彼を神様に捧げ、今彼は神様の宮(今でいうと教会と言ったらわかりやすいでしょうかね)で仕え、生活をしていました。そして神様が供えている神様の御心、ご計画のための準備をしていたところでした。
とはいえ、↑に「サムエルはまだ、主(神様)を知らず、主(神様)のことばもまだ、彼に示されていなかった」とあるようにまだ彼自身は神様のことを良く分かっていなかった。母親に連れてこられ、母親が献げただけで、知識としてはもしかしたらあったかもしれませんが。
私たちは本来神様と共に歩む中で本来神様がご計画しておられた自分になれる。神様の子として。神様のいのちの中、愛の中、養われて初めて私たちは本来の私たちとなることができる。でも神様から離れ、私たちは罪の奴隷となり、それを、神様の祝福を、恵みを、その資産を失ってしまったのです。しかし神様はその御手をいつも伸ばされ、ご自身の元に引き寄せたい。だってそうでしょう?子が離れ、悲しみの中にいてどうして親は放っておけます?私たちの造り主なる神様は、無責任にも放棄をすることはなかったのです。そしていつもその御手を伸ばし、私に変えれ、ここにいのちがあるんだ、そう訴えるのです。
神様はサムエルにもその御手は伸ばされていた。もちろん上の出来事はサムエルの召命の話、というまあクリスチャン用語を書くとややこしいのですが、といえばそうなのですが、それも神様を知らなければどうにもならない話であり、それを断るも受けるもその人その人。神様という存在を知っても、神様の御心、愛の中に生きるか、いや自分は自分と生きるかはそれぞれなのです。いくら神様の宮という場所にいようとも、神様のその御手に、「はい。ここにおります」と返事をするだけではなく「あなたの神様」として受け入れ「お語りください、しもべは聞いております」「聞き従います」応えなければ何の意味もない。彼はこの神様を受け入れた、だから彼はいのちを得、また神様の恵みを受け歩めたのです。
私はサムエルではないから、↑の話は関係ない、なんてことはない。サムエルはサムエル、あなたにはあなたへの神様の御心がある。サムエルに神様がその御手を伸ばされご自身の元に引き寄せられたように、私たちが神様を知らず、真の救い主を知らず彷徨い続けている事を神様は無責任に見捨てず、良しとせず、神の御子たるイエス様を私たちの内に遣わし、私たちが神様に対して犯したこの罪の代価を、刑罰を、死をその身に引き受けられ、十字架に架かられ死なれ、その御子イエス様のいのちの代価をもってあなたは買い戻され、神様の子として引き上げようとされたのです。
でも、サムエルのように、ただ十字架を知識として知っていても意味がない。サムエルが神という存在を宮・今でいう教会で知っていても、それだけなら世界史の教科書を見れば「知識」としては知ることはできる。でも、「自分の救い主として」受け入れなければ意味がない。「自分の罪の贖い主」として。あの十字架から招かれる、サムエルサムエル、ならぬ「〇〇、〇〇、私はあなたを愛しあなたの罪を身代りに背負い十字架にかかったんだ、私に帰りなさい」というその声に「ハイ」と答える時、あなたは神様の子となる。
サムエルには預言者・士師としての役割を計画され、その彼の生涯に神様が共におられ、どんな時においても共に降り責任を果たされていた、恵みを注がれ続けて行ったように、あなたにはあなたへの神様の、御子イエス様のいのちを持って買い戻されたその愛による御心が、ご計画があなたの内に注がれる。本来神様の子としての恵みを受け、その中を私たちは歩むのです。本来のあなたになるのです。神様の本来計画していた、御子イエス様をも与えることができるほどのお方の愛の御心による姿に。
あなたはもう御子イエス様にあって神様のもの・子とされた。私たちはこの神様に今日信頼し、どんなときであっても「はい、主よお語りください。しもべは・私は聞いております・従います」と告白し歩もうではありませんか。あなたを御子イエス様ゆえに買い戻され、責任を持たれる、真の親子関係に引き入れられたのだから、私たちはただこのお方に信頼し歩もう。私たちは神様のしもべ。ただ神様の御心を・御心が現される事を信じ委ね従い歩もう。