ー神様がどんな方なのかを思い出すー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

ローマ人への手紙121-2

 

人はそもそも神様の祝福を受け、神様の資産を受け継ぐ、神様の愛と養いの中生きる者として造られた。私たちはこのそもそもの神様の御思いに心を合わせたい。私たちが人生を変えるのではない、私たちが神様を変えるのでもない、神様が私たちを変えて下さるのだ。

 

さて、↑のことばは、パウロというキリスト教初期の時代に伝道者として活躍した人の一人が書き残した手紙の中の一部です。↑のことばを見るとさもパウロは品行方正に生きたのか、と思われるかもしれませんが、彼は実はキリスト教徒の迫害者でした。教会がいよいよ始まる時代、キリスト教徒を迫害し、殺す計画さえ立てる。キリスト教徒から「あのパウロがキリスト教徒になった?」と驚かれるほど、信じられない、と思われるほどのことをしていた。

 

しかし、ある日彼に信じられないことが起こった。彼を大きく変える出来事があった。それは、彼らが信じる、復活のキリストと出会ったのでした。彼が迫害していた、神に呪われ十字架にかかった、神を冒涜するものだと考えていた御子イエス様が本当に復活された。しかもイエス様はその迫害者パウロを裁く事よりも悔い改めに導き、救いへと招かれたのでした。そのことによって彼の人生は激変したのです。

 

彼はもともとの宗教家としては相当な有能な存在でこのままいけばある意味では人間としての成功は納められた。それにキリスト教徒への迫害があることは彼自身がしていたのだから当然理解していた。それでも彼はキリストを救い主として信じ受け入れる、自分が神を愛しているつもりで実は神に敵対していた罪人で裁かれ滅びゆくしかない者が、その罪をも身代りに背負われ十字架に架かられた、その愛にひれ伏すしかなかったのでした。その神様のものとされる特権は、神様の子とされる特権はそれらのものよりもはるかに勝る、と彼は知ったのです。

 

現実この先彼はクリスチャンになった故に多くの迫害もあり、何度も殺されそうになり、実際には最後には殉教するのですが、それでも彼はそのような多くの迫害、殺される危機の中を通って来てもなお、↑のように告白するのです。「この世と調子を合わせてはいけません」と。

 

別に、↑のことばは何かこう、仙人のようなこの世から隔絶した場所に行って生活するように、というわけではない。むしろ全世界に出て行ってこの福音を届けるように、キリストの愛をもって仕えるようにイエス様もおっしゃっている。

 

でも、もっと大事な事があるのです。そんな形だけ、この世の生活と違う仙人のような生活をすればいい、というわけではない。私たち自身がそれこそ世の人のように、神様から離れた生活をする、それこそ神様を神様と思わずに、利用する便利な道具程度にしか見ないとか、日本的には八百万の神の一人的な、数ある何か清いものの一つとか、パワースポット的な物の一つ、思想の一つ程度のものと同じように考え生活してどうするんだ?唯一真の神様はそんな罪深い私たち(罪というのはこの世的な犯罪行為だけを指すのではなく、神様を神様としない、神様から離れる、そうしたこと自体が罪)を「憐れんでいただいた」その今、神様に帰り、神様の子として神様を神様として崇め生きないでどうするんだ?そう訴えているのです。

 

神様の憐み、こんなあなたのためにさえ御子イエス様を惜しまずささげ、身代わりに十字架に架けあなたを取り戻そうとされた神様なんだ、その憐みを受けた今、どうしてこの世の人たちを同じように神様を疑い、同じように歩む必要があるんだ?と。神様はその憐み、イエス様の十字架ゆえにあなたのために命さえ惜しまず与えて下さった、それほどの愛が、その御心があなたに現されるんだ、どうして疑う必要があるだろう?

 

パウロは「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのか」と言っていますが、私たちのうちに御子イエス様にあって神様の御心、善が、完全なる神様のご愛・ご計画があなたに現される、知らされる、変えられる、そう訴えました。

 

でもこれを知るのは、「心の一新によって」、つまり神様の前に悔い改め、神様の御心に音叉を合わせ、祈り求めるとき、自分の力ではなく、聖霊様によって「自分を変え」られるのです。↑のことばは能動態になっていますが実際は受動態。神様によって私たちは造り変えられるのです。新しいものとされるのです。

 

最初にも申し上げましたが、人はそもそも神様の祝福を受け、神様の資産を受け継ぐ、神様の愛と養いの中生きる者として造られた。罪によって私たちはこの資産を失いましたが、しかし御子イエス様ゆえのその憐みゆえに、私たちはこれをいただく、御子イエスさまさえ惜しまず与えられる、いのちさえ惜しまず与えられたその方があなたの内に全てをなしてくださる。ならばどうして今更神様のないところに価値を求める必要があるだろう。どうして今更罪に生きる、神様から離れる必要があるだろう。神様はあなたを子として今迎え入れて下さっているんですよ?

 

私たちはもっともっと神様の本来くださろうとしているその恵み、御心を期待しようではないですか。この世の人の目からはどうしようもない状況であっても、同じように考えず神様の御心に音叉を合わせる、神様に祈り求めようではありませんか。辛い時は辛い、それは間違いではない。でも私たちは慰め主を、救い主が居る事を知っているのです。この神様が応えてくださることを知っているのです。

 

私たちはこのそもそもの神様の御思いに心を合わせたい。私たちが人生を変えるのではない、私たちが神様を変えるのでもない、神様が私たちを変えて下さるのだ。御子イエス様にあって。今日、私たちはイエス様ご自身の愛をもう一度思い起こし歩もう。本当のあなたに神様によって造り変えていただこう。

 

また、本当のいのち・救いを願う方は今日主の前に祈ろう。帰ろう。今日神様は喜んであなたを受け入れ、あなたを新しくしてくださり神様の子としてくださるから。この世はあなたを救うことはできない。しかし真の神様はあなたを救い、本来あるべきあなたの姿に、その良いご計画に導いてくださるから。あなたを暗闇から、絶望から、罪から、死から救い出せし、復活のイエス様と共にあなたを光のうちに、いのちの内に引き上げる事の出来る神様の元に今日、帰ろうではありませんか。