ー世界の光ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」

マタイによる福音書514-16

 

私たちが光り輝けるのは、私たち自身が一生懸命に何かをしたら輝けるのではない。イエス様が私たちの内に光り輝くからこそ、私たちは輝く。この光なるイエス様に私たちはいつも留まり続けたい。

 

さて、神の御子たるイエス様が人となってお生まれになり(といっても、イエス様は天地万物の造られる前から存在され、今から2000年ほど前にお生まれになる前も必要に応じ、来られてはいたのですが)、人の間に住まわれ、そのご愛を存分に人々の間に注がれ、語られていた中で、イエス様は幸いな人とはどういう人なのか、ということを語り始めました。その一部が↑のことば。

 

イエス様は、この時こうおっしゃった。「あたがたは、世界の光です」と。これをふと読んでいたときに思ったのは、でもなんで幸いなるかな~の話の流れでこんなことをイエス様はおっしゃったんだろうか?と。そこでふと思った、それはイエス様が私たちを輝かせてくださることだ!と。それこそ幸いではないか。

 

そもそもの話、世界の光云々の前に、明るくなるには、何か光源が必要です。一番わかりやすいのは太陽。太陽があるから昼は明るい。電球だってそう。ガラスが光るのではなく、そこに光源があるから、部屋を明るくすることができるわけです。その光源が強いほど明るく照らす。

 

私たちを明るく照らしてくださる方がいる。これ何と幸いな事だろう。「世界」、この世にあってイエス様が輝かせてくださるのだ。私たちはどれだけ様々な悲しみや闇をこの世界に見出すだろう。いやそんな遠くじゃなくてもいい。私たちの生活の中で見ても十分でしょう。イエス様はこの中にあって「世界の光」、輝かせてくださる、というのです。イエス様はそのために来られた。

 

でも、イエス様が輝かせたいのは、私たちのある一部の闇に対して光り輝かせるためではない。私たちは神様から離れ、最高の愛の源、光の源、神様から離れてしまい、暗闇の中にいる…罪の奴隷。もうどうにもならない最悪の状態。光源なしに、愛を注がれる方なしに、いのちを与える方なしに、私たちはどうして本当に生きた者となり得るだろうか?輝けるだろうか?私たちは神様から離れ、また捨てた今永遠にその暗闇の中に閉じ込められるところだった。

 

しかし、イエス様がこの死の中に、永遠のさばき中に、イエス様が十字架で私たちの罪を背負い死なれる事によって降られた。そして、よみがえられたことによって、イエス様を自分の罪の身代わりとなって死なれまたよみがえられた救い主として信じ受け入れる時、私たちはこの永遠の裁きという最悪の暗闇に光を灯され、神様の子とされる。神様のものとされる。イエス様があなたの内に住まわれ、イエス様にあってあなたは保証され、あなたの内にイエス様の光が輝き照らされるのです。神様の愛が、イエス様のいのちという代価を持ってまで取り戻された神様の愛が、その御心があなたの内に豊かに働かれるのです。その時、あなたは光り輝くのです。

 

まあ、↑のことばは、世界の光となって愛を伝えなさい、というメッセージもあるのですが、それにしたって、イエス様の内に私たちがとどまらなければ光り輝けません。どんなに善行を積もうとも、それは本当の光にはなりえない。

 

話しは戻して、イエス様は別な時にこうもおっしゃりました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」と。私たちはこのイエス様の内にとどまり、イエス様に信頼し歩むときにこそ、従う時にこそ、イエス様の光があなたの内に光り輝くのです。主の前に悔い改め立ち返る時、私たちはこのいのちの光を持つ者となるのです。隠すことのできないほどの神様の大いなる栄光があなたの内に現されるのです。そしてそのあなたを通して神様はその周りをなお照らされるのです。私たちは周りに絶望するような時も、それを光り輝かせるのはイエス様。その時神様がどれだけ素晴らしい方かを知らせることができるほどの大いなることが起こるのです。

 

もう一度言います。私たちが光り輝けるのは、私たち自身が一生懸命に何かをしたら輝けるのではない。イエス様が私たちの内に光り輝くからこそ、私たちは輝く。この光なるイエス様に私たちはいつも留まり続けようではありませんか。自分が一生懸命になる必要はない。ただ、イエス様の御心を求めイエス様にとどまり続け、期待しよう。あなたへの神様の愛は、御子イエス様をあなたの身代わりにさえして十字架で死なせるほどの愛。この愛があなたの内に光り輝くのだから。