「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」
Ⅰテサロニケ人への手紙2章13節
神様の言葉は、確かに私たちを導きます。しかし、それは何か人生の足し程度にする選択肢の一つ、方法論の一つ、とかそのレベルではない。その言葉を信じ受け入れるなら、確かにあなたの内に「神様が」それをなしてくださる。御子イエス様ゆえに。
さて、↑の手紙を書いたパウロさん。彼はかつてキリスト教徒を迫害し、何とかこれを捕らえ、死に追いやりたいと考えていた、もうある意味では神様の敵対者だった、といってもいいでしょう。そんな彼にある時、何とこともあろうに彼が迫害していた、十字架にかかって後3日目によみがえられた、復活された、神の御子イエス様が現れ彼を裁くどころか、悔い改めに導き、彼を救われたのでした。
彼は知識としては、いつか救い主が来られることを知っていた。でも、木にかけられるものは神様に呪われた者、とも知っていたから、十字架にかかったイエスなど神様に呪われた者じゃないか、それなのに神の御子だのなんだのって、と迫害していた。
でも彼は知らなかった。それは何のために呪いを神の御子イエス様が受けられたのかを。それは迫害者パウロであり、また私たちのような神様を神様とせず自らを神とし、神様を自分の役に立つか立たないかで切り貼りする私たちの受けるべき、「木にかけられ神様に呪われた者となる」を、その裁きを神の御子たるイエス様に身代りに背負わせたことを。その愛を、今パウロの内に現れたのでした。神様の愛が、神様の約束されていた、彼の知識は、確かに神様の語られたものであり、また彼の内に「実現」するべく神様ご自身が働かれた、そのことを彼は体験したのでした。
でもそれだけではない。彼は救われて神様との関係は終わり、ではないことを体験した。イエス様の十字架ゆえに彼は罪赦され、罪の奴隷、暗闇から、神様の子として引き上げられた彼の内に、その御子イエス様ゆえに神様が存分に働かれている事、復活・昇天の際に約束されていた聖霊様を与えて下さり、彼のうちに生きて働かれ、共に進まれる、神様ご自身が彼のうちに生きて働かれている事を実感していたのです。多くの迫害を受け、何度も殺されそうになりながら、しかし彼を励まし、時に助け、また行く先々において必要なことをいつも神様は備えて下さっていた。
そのことゆえに、パウロは↑の手紙に、テサロニケにある教会、まあそれだけではなくすべての教会にも宛てられてはいますが、私たちに勧めたのです。神様の言葉・福音は「人間のことば」ではなく、神の御子イエス様を罪人の、受けるに値しない者のためにさえ十字架に架け、神様に呪われた者として身代りに罰するほどに私たちを愛される「神様のことば」であることを。そしてそれは御子イエス様にあって「神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いている」と。
このテサロニケの人たちはたった3週間でイエス様を救い主として信じ受け入れ、教会が建ち、しかも迫害下の中にあっても前進し続けている、と。その理由は、まさに御子イエス様の十字架の血潮によって結ばれた神様との和解、契約ゆえに確かに神様が彼らの内に生きて働かれている、この確信に立とう、と勧めるのでした。
神様の言葉は、人間のことばのように時と場合によって変わるようなものでもなければ、それを自分で実行するのではなく、「神様があなたの内に働かれる」事を「私たちが信じ従う」、その時に神様が大いなることをなしてくださる、だから御子イエス様の十字架の愛、この救いを私たちはいつも覚え、この前にひざまずき、主を待ち望もう。神様のことばは、人から出たものではない、あなたのために神の御子イエスさまさえ惜しまず与え、あなたの代わりに神様に呪われた者とするほどにあなたを愛する神様ご自身の口から出た、出るものである。
あなたはこの神様のことばをどう思うだろうか?何ものととらえるだろうか?自分の人生のスパイス程度?選択肢の一つ?いえ、すべてのすべてです。今日私たちは神様の大いなる御業をもう一度思い起こし、主の前にひざまずき、この方を真の神様として受け入れ、共に歩もう。その時、神様のことばはあなたの内に動き始め、その御力が現される。御子イエス様にあって。今日、「御子イエス様にあって」大いに期待し、歩もう。