ー本当の幸せを得る方法ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「彼が千年の倍も生きても、―しあわせな目に会わなければ―両者とも同じ所に行くのではないか。」

伝道者の書66

 

私たちはどんなに財宝を得ても、死ぬときにはこれをもってこの地上を終える事はできない。人は裸で来てはだかで帰る。どんなに成功を治め、栄誉を残してもその名声はいつまでも続きはしない。たとえ千年の倍長生きしようが、真の幸せと出会わなければ何の意味もない。これはなんとなくわかるでしょう。

 

↑のことばを残したソロモン王も、多くの財宝、名声を得た一人でした。3代目のイスラエルの王として外国にまでその名声をとどろかせ、またすごい神殿も建てた。

 

でも彼はそんな多くの金を得ても、名声を得ても、これは神様と出会った喜びには勝らない、そう告白するのです。まあ、彼の後半の人生では、神様を捨てて本当に悲しみの最後を迎え、↑のことばの反対の道をたどって行ってしまったのですが。それゆえに余計に↑の彼のことばは際立ちます。

 

神様は私たちの本当の幸せを願っています。だって神様が私たちを精魂込めて造られたのですから。私たち一人ひとりは神様の目には高価で尊い存在。だから、神様は私たちに必要な全てを備えていてくださっていたのです。それは衣食住という目に見える姿のものから、目には見えない神様の養い、備え。当たり前すぎて気づかないだけで神様は私たちに多くの素晴らしい物を備えて下さっているのです。

 

しかし私たち人間は神様がくださるものを疑う。神様がどれだけ愛しているのかを忘れる、知らないから。だから自分の思う物を与えない時、神様自身を信じられなくなる。でも神様を失っては私たちは生きられない。どんなに成功しようが、千年の倍生きようが、そこには何の価値もない。そこにいきつくは、永遠の神様との断絶、裁き、死。でも神様が私たちと共にいて下さるなら、その日々は、その1日さえ、この世の千日にさえ勝るのです。

 

ところが私たちはこの神様から離れた。いや神様を捨ててしまった。だから私たちは神様から見捨てられても仕方がなかった。でも、神様は見捨てず、私たちを取り戻すために、私たちの支払わなければならない刑罰を十字架でその身に受けて、身代わりに死なれたのでした。そしてよみがえられたことによって、イエス様を救い主として信じる私たちを買戻し、神様の子としてくださったのです。

 

ここにこそ私たちの幸せがある。神様のところにこそ私たちの本当の幸せがあるのです。あなたを罪の奴隷、死刑囚から解放し、神様の子とされる、これ以上の幸せがどこにあるだろうか?あなたはイエス様のいのちという代価によって買い戻された存在なんですよ?その神様があなたを保証してくださるその一日一日は、他と比べられるようなものではない。

 

神様を捨てるなら、私たちの行きつく先は結局は死。しかし私たちはイエス様の十字架の前に悔い改める時、最高の行きつく先、神様の家族、御国へと引き上げられる。最後は死して後永遠に神様と共にさらに住まう。その一端を私たちはこの地上で味わうのです。それは他と比べられるものではない。

 

私たちはこの本来行き着くべき場所、行くべき場所、主の元に帰り、この神様と共に歩もう。あなたは神様に愛される存在。御子イエス様のいのちさえそのあなたのために惜しまず与える神様、この神様に今日帰り、いのちを、真の幸せを得、この中を歩もうではありませんか。たとえ順境の日であっても逆境の日であってもこの主が共にい、イエス様にあって保障されているのですから、ただただ信頼し歩もう。