「それから、イエスは弟子たちとともに湖のほうに退かれた。すると、ガリラヤから出て来た大ぜいの人々がついて行った。また、ユダヤから、エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうやツロ、シドンあたりから、大ぜいの人々が、イエスの行なっておられることを聞いて、みもとにやって来た。イエスは、大ぜいの人なので、押し寄せて来ないよう、ご自分のために小舟を用意しておくように弟子たちに言いつけられた。それは、多くの人をいやされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押しかけて来たからである。」
マルコによる福音書3章7-10節
イエス様は語られる神様である。イエス様は行動される神様である。イエス様は私たちを救いに、神様ご自身の元に引き寄せてくださる。
さて、↑の出来事は、今から約2000年ほど前、神の御子たるイエス様が人となってお生まれになられたとき(もともと存在はされていたし、それよりも前に時々必要に応じて来られてはいましたが)の出来事です。イエス様は神であられるのに人となって来られた、行動された神様。でもイエス様は仕えられるために来られたのではなく、かえって私たちに仕えて「くださる」ために来られたのでした。
ですから、イエス様はどこか神殿とかそうしたところで偉そうに座して人々が来て、何か大金を献げたら行動するとか、そういうことをせず、むしろイエス様ご自身が行動に移され、神様から離れ暗闇に、罪の中に、痛み悲しみの中に苦しむ人たちのところに、また社会から見捨てられたような人たちのところに、いやそれだけではない、国を裏切るものや罪人、死刑囚の横にまで行かれたイエス様。本当にイエス様の愛の深さは測り知れない。こんな人のところにまで行くの?という人のところにまでイエス様は訪ねて行かれた。何のために?失われた羊、神様から離れ滅び行く私たちを神様の元に導くために。
そんなイエス様のうわさを聞きつけた人たちがいつもイエス様の後をついてきていました。この時もたくさんの人がイエス様の癒しを求め、イスラエルのあっちこっちから、イエス様に癒してもらうべく、訪ねてきたのでした。
それにしても↑のことばをみると、イエス様は、触ろうとして押し寄せてきた群衆を避けるように小舟に乗り込んだように見えますが、別にそうではない。イエス様は別に癒さない、というわけではないのです。事実この直後にも癒されます。この直前にも癒されていました。でも、イエス様が来られたのは「ただ癒す・問題を解決する」ことだけではなかったのです。むしろそれだったらわざわざ人となって来なくてもよかった。そんな苦労なんかしないで時折現れて助けに来るだけでいいじゃないか?むしろ時々神秘的に表れた方が感動?
でも群衆たちも、私たちもよく陥る話ですが、彼らは・私たちはこの神秘的な体験、ないし癒しを求めても、神様ご自身を求めない。癒された方、癒されたその背後におられる神様を、その神様の御思いを見ない。この出来事の直前にも多くの人が癒されたのに、彼らは癒される事だけに注目して神様に帰るのではなかった。だからイエス様は「まず小舟に乗りこまれ御ことばを・福音を語られ」てから、その後に彼らを癒されたのでした。
別にイエス様は私たちの個人的な問題に興味がない、癒しを求める事は悪いことだ、とは言わない。イエス様は、その十字架によってすべての病も痛みもまた癒された、と聖書にありますし、十字架に架かられ死なれ復活された後、天に昇られましたが、今も生きて働かれます。救いの道は示したから、後はもう何もしない、というわけではなく、今も私たちのためにとりなし祈られ、なお私たちのうちに生きて働かれています。
イエス様はかつてサタンから、空腹なら、石をパンに変えればいいじゃないか、と誘惑を受けた時、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と反論しました。そう、私たちは何か神秘的な体験や奇跡によって養われるのではない、神様の口から出る一つ一つのことば、御子イエス様の十字架によって回復され和解された中にある養い、この中で私たちは生きるのです。この和解された関係の中歩むように、と。
私たちは忘れてはいけない。本来私たちは神様を捨てた、罪人であり、永遠に神様と断絶されるべき存在、とても神様の奇跡など受けるに値しない者だったということを。しかし、神様はそれをひっくり返すために私たちに最大の奇跡をなされた。それは、何の罪もない神の御子イエス様を私たちの罪の代価を身代りに背負わせ十字架に架けて死なせる、というあり得ないことを。そして御子イエス様をその死者の中からよみがえらせ、イエス様を自分の罪の身代わりとなり死なれ、なおよみがえられた救い主として信じ受け入れる時、私たちも同じように引き上げられ、神様と和解させていただき、「神様の子として迎え入れられた」、神様の家族に御子イエス様の十字架の血によって、いのちによって結ばれたということを。
私たちはこの神様との関係を侮っていないだろうか?奇跡をしてくれるだけの神様を求めていないだろうか?自分の思い通りになるか否かだけで、自分の願いを叶えるか叶えないかだけで神様かどうかを決めてはいないだろうか?神様は御子イエス様によって、あなたそのものを、罪人で死にゆき滅び行くべき死刑囚を買い戻され、ご自身のものとに引き上げて下さった、それほどの代価を支払われてまで結ばれた関係をどうして疑う必要があるだろうか?大丈夫です、あなたが心配しなくても神様があなたを心配しています。あなたの内に主は生きて働かれ、世の終わりまであなたと共に「いつも」いる、と約束してくださったのだ。この関係の中で神様は私たちに私たちが思う以上のご計画を、御心をなしてくださるのです。
私たちはただ小舟?船?を用意し、イエス様を船頭にお招きし、共に歩もう。そしてイエス様が語られる事に耳を傾けまた養われ、イエス様がなされることを大いに期待しながら歩もう。この新たな旅路はイエス様のいのちという代価をもって与えられた新しいいのちなのだから。ただただ期待し、信じ歩もうではありませんか。