「わたし(イエス様)は、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。」
ヨハネによる福音書10章11-13節
神様はあなたを中途半端に投げ出す方ではない。あなたそのものを心にかけて下さっている方である。この喜びを私たちは忘れてはいけない。
さて、神の御子たるイエス様が今から約2000年ほど前に、人となって生まれてこられた。その中でイエス様はただ来られただけではなく、人として生き、神様の愛を現し、神様を見いだせず暗闇の中にいる人たち、社会から見捨てられたような人たち、神を求めて見出せずに彷徨う人たち、中には死刑囚もいた、そんな人たちを尋ね求め、それぞれの必要を満たし、かつ悔い改めに、真の神様について語られたのでした。
そう、イエス様は何か困った人を見つけたら、その困った問題だけを解決するために行動していたわけではないのです。正直な話をするなら、それなら別に人間になって来なくてもいいんです。どこか天から時々その困っている人を助ければいい。ないし、イエス様人となって生まれる前に、姿を取って来られ人を助け導いたようにすればいい。
でも神様の思いはそこにはなかった、時々助ける程度の薄っぺらい関係を私たちと持ちたいわけではなかった。神様から離れ、好き勝手に生き、罪の中に彷徨い苦しむ、真の神様を求めても知らずに彷徨う人たちを見捨てる事などできなかったのです。
神様は私たち一人ひとりを造られた。本来、私たちは神様の子なのです。神様の目から見たら私たちは大切な、高価で尊い存在なのです。だから、羊飼いにとって羊を24時間養うほどに大切な存在なように、神様は私たちを養いたいのです。↑でイエス様は自身を良い牧者である、とおっしゃられたように、それすなわち、イエス様はある時だけ私たちを助けたい薄っぺらな関係ではなく、24時間、私たちを養いたいのです。それは監視をするとか束縛するとか、そういうことではない。私たちの知らない中でもイエス様は私たちに、あなたに心をかけて下さっているのです。いや、あなたという人そのものを心にかけていてくださっているのです。
こう語られた相手の人たちがイエス様を裏切っていくことをイエス様は知っておられた。自分の思うようにならないと、イエス様をローマに引き渡し、十字架に架けようとしている事も知っていた。私たちだってそう。私たちの知らないところで神様は私たちにその御目を注がれ、守り導こうとされているのに、私たちは自分の思う通にならなければすぐに態度を翻す。こんな罪深い私たちのどこに神様の寵愛を受けるに値する人がいるだろうか?弟子たちや当時の群衆の中にいただろうか?いやいない。
でも、イエス様は、そうして神様から離れ罪の中に生き、罪の奴隷となっている私たちがその罪ゆえに滅びゆく事が我慢ならない。だからこそ、良い牧者は自分の羊・つまり私たちのために命を捨てる、あなたのためにあなたのいのちがサタンに、その滅びに縛られ滅びゆく事がないように身代りに十字架で引き受ける、そう宣言されたのです。裏切者たちのためになぜわたしがいのちを捨てなければならないんだ!とは考えなかった。神であられる事を捨てられないとは考えずに、最もありえない方法、ご自分のいのちの代価を支払ってでもあなたを取り戻す、あなた自身を取り戻す決断をされ、実行されたのです。いったいどこにそのような神はいるだろうか?いやいない。
私たちは自分の欲望を満たすことのできる神を探す。満たさない者は切り捨てる。でも私たちこそ本来神様の群れから、家族から切り捨てられなければならなかった。でも、イエス様が一度十字架上で神様に見捨てられ、身代わりに死なれる事によって、そしてよみがえられたことによって、私たちをもその群れに引き戻してくださったのです。神様の群れに。このような神は他にはいない。
私たちがどれだけ自分の欲望や思い、心を満たそうと神という名の思想、偽神、偶像…そうした物を求めても、彼らはあなたをいつも養うことはできないし、状況によってはあなたを裏切るだろう。あなたの願いに対して。あなたの願望に対して。しかし神様はあなたそのものを御子イエス様によって取り戻されご自身の資産を受け継がせてくださるのです。イエス様にあって私たちは罪の赦し・永遠のいのちを受け、イエス様が今やあなたと共に住まわれる。世の終わりまで。これ以上の養いはどこにもない。イエス様はあなたを置き去りにしないために十字架に架かられたのです。ならばどうして私たちはイエス様を切り捨てる必要があるだろう。
私たちはただこの十字架による罪の赦しを受け、神様に帰ろう。イエス様はおっしゃった。世の終わりまでいつもあなたと共にいる、と。私たちは自分の望むものをくれる神を求めるが、イエス様は最も大きなご自分のいのちを私たちに与えて下さった。私たちはこれ以上何を望むだろう?そこまでしてくださる神様をどうして捨てるだろう?私たちはこの十字架を見上げ、このイエス様のいのちという代価を持ってまで取り戻してくださった神様のあなたへの愛、御心が注がれる事を信じ信頼し歩もうではありませんか。「わたし(イエス様)は、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」