「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」
箴言10章22節
私たちを富ませることができるのは神様だけである。神様が十分与えてくださっているので、その与えてくださっている者に対してわたしたちは不平不満を言う必要はない(仕事をしなくていい、というわけではなく)。
私たちは古今東西、富を求める。いや、正確には、幸せになるため?満足する何かを求める。それは富と言っても、金銭だけとは限らない。自分を満たす何者かを求める。
でもそもそもの話が、神様は私たちの本当の必要をいつも備えていてくださっている。そのことを私たちはどうしても忘れてしまう。私たち人間が創造される前に神様はすべてのものを造られ、備えられていた。住む場所、食べ物、環境、衣食住、全部神様は備えていてくださっていた。その地全体を潤し豊かに実っていた。最良のパートナーも備えていてくださっていた。
私たちはこう、日本にいるとどうも参拝し、訪問し、お賽銭的な物?をして、祈って、修行して…そんなことをしていたらいつか叶えてくれる…なんか動かない何もしない神、きまぐれの神、と考えてしまう。でも真の神様、唯一真の神様は生きておられる。人の手によって造られたものでもないし感情を持っておられる。だから、神様にとっての最高傑作である私たち人間を精魂込めて造られ、またその私たちに神様は良きものを与えたい、その資産を相続させたい(神様の尽きる事のない、愛、恵み、あらゆる祝福を与えたい)のです。
神様は何か特別修業を積んだら、大金をつぎ込んだら、一生懸命何か善行を積んだら、仕方がないからとその重い腰を上げて、何か恵まれた「気がする」程度のことをされる方ではない、神様は私たちをいのちで、喜びで満たしたい。だから神様は初めに天地万物を造られた際、すべての物を完璧に備えてくださっていたのです。
ところが残念ながら、はじめの人アダムとエヴァは、いや彼らだけではない、私たち人間は、神様が与えてくださっているものを喜ばない。いや、神様が私たちを富ませようと養っていてくださっている事に気づかない。そして自分の思う通に行かないと、その神様をすぐ切り捨てる。自分を満足させる物、偽の神を捜し求める。そうして私たちは神様から離れて行ってしまう。
それは時代が経っても変わらなかった。奴隷として囚われていたときさえ憐れみを注がれ続け、救い出されても、罰せられ捕囚されようとおもその地にあって神様は守られ、なお彼らを救い出してもすぐ、自分たちが神であろうといつもその主権を奪おうとする。神様を引きずりおろす。助けてくれてありがとう。でも後はあなたはいらないから、と。
でも、私たちは知らない。私たちは神様と共にあってこそ本当に生きた者となるのです。人が造られたときも、神様の息吹が吹き込まれて初めて、生きた者となったように。私たちは神様から離れては本当の意味で生きた者とならない。神様から離れたところにあって自分で一生懸命に富を捜し求めても私たちはそれを見出す事はできない。だってそれは全て神様から来るものであり、真にあなたを養い、心配し、すべて備えられる方は神様のほかにはいないから。私たちは神様によって造られた者ですから、神様という親から離れてどうして生きていけることができるだろう。
でも、神様はそんな身勝手な私たちを見捨てる事はしなかった。神様の祝福を、いのちを失い、身勝手に離れて行った私たちなど捨てられて当然。常に変動し、真の愛などない、同じ身勝手な世の中にあっていつまでも得られない、あなたを決して満たすことのできない偽りの富を求めてさまよう。最後は永遠の死、裁きを待つだけ。そんな私たちを見捨てられない神様は、本来私たちがあるべき姿、神様の御心、ご計画、私たちが神様の子として生きられるよう、その罪の奴隷から救い出すために、ご自分の御子イエス様を人として生まれさせ、仕え、その間に住まわれ、見捨てていないというその愛を惜しむことなく、注がれていった。それでも裏切る群衆、弟子たち…そんな彼らの罪をも、私たちの罪をも背負い、十字架上で身代りに罰せられ、私たちが本来受けるべき刑罰を、死を、痛みも何もかも丸ごと背負い死なれた。そしてよみがえられたことよにって、イエス様を自分の罪を身代りに贖ってくださった救い主として信じる私たちをその罪の奴隷から、いのちのない滅びの中から、自由へと、神様の子へと引き上げてくださったのです。
この救い、ここにこそ、神様と共にいきる永遠のいのち、ここにこそ真の富がある。朽ちる事がない。なぜ?↑のことばをもう一度読んでみたら、「富ませ」る、と。お金はだんだん減りますが、神様が富ませ続ける、養い続けてくださる。この天地万物を造られ、すべ治め、あなたのためなら御子のいのちさえ惜しまず与える方があなたのうちに生きて共におられ、あなたのうちにそれほどの御心をなしてくださる。それ以上の富はどこにあるだろう?それに何を付け加える必要があるだろう。このイエス様の十字架による救い、神様の子とされた特権、これこそ真の富、ここにこそ付け加える必要のない真の富があるのである。
私たちはこのイエス様のうちに、富を、喜びをいつも求め歩もう。これを疑う必要はない。受ける価値のない私たちのためにご自分の御子のいのちをまず、私たちのために与えるお方がいるのだから。そこまでしてまで神様はあなたを愛し、取り戻されたのだから。その愛のうちに神様の御心を求め歩もう。神様はあなたに不足させる方ではない。何か不足を感じるときがあっても神様が、私たちが思う以上のベストへと導かれる、と信じよう。罪の奴隷、裁かれなければならなかった私たちを神様の子へと引き上げてくださった神様があなたと共におられるのだから。導かれ、養われ、富ませてくださるのだから。神様の与えて下さる富に今日、信頼し主と共に歩もう。