「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である』と言ったとおりです。そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」
使徒の働き17章26-30節
神様は私たちから遠く離れたところにはおられない。あなたのところにまで降りてこられ、あなたにとって最も近い神様となられたのです。なんと感謝な事だろう。
人は誰しもが神様を求めています。無神論者の方であっても、何か概念的な物を神にしているのであって、やはり神を求めている。↑の話は紀元1世紀ごろ、パウロという人がまことの神様を、キリストイエス様による救いのメッセージを携えてギリシャのアテネについたころの話。
当時のギリシャは、まあ今もそんな面がないというわけではない、私たちもある事ですが、彼らは何かの不安を満たすために、あっちこっちに偶像を造り、置いていました。ギリシャ神話なんかを思い出したり考えれば、なぜ、彼らがそのような像を造ってそれを神にしていたのかわかるのではないでしょうか。それは古今東西私たちの持つ思いと同じで、本当の幸せを捜し求めて、それを満たす神を探していた。そして、自分たちが強いと思う物を神としてかたどった。まあ、目に見える形がほしかったんでしょう。だから、あっちこっちにそれらの偶像が、人の手でかたどった「物」でしかない偶像・偽神が置かれていた。日本風に言うなら八百万の神、何でも神とした。
でも、それは所詮人が何かを神に仕立て上げているのであって神でもなんでもなければ、金や銀、石などで人がどんなに作ろうともそれらは生きていない。自分の役に立ちそうなものや思想を自分の神としても、それはあなたが操ろうとしているだけであって、それらはあなたに何もすることはできないし、それは神でもなんでもない、物。
その彼らに向かってパウロは↑のように語ったのでした。真の神様は、決して遠い存在なのではない、と。私たちは自分の思う通になる神や思想を造りだし、それを神とする、自分で何かを神としようとするけど、遠く感じるかもしれないけど、真の神様は確かに生きておられ、近くあられる、と。どこかで見守っているだけ、神として造ろうとも何もできないあなたがより頼む偽の神とはわけが違う。日本的に言うなら八百万の神の一つなんかでもない、唯一真の神様であり、なんと、神であられるのにそのありようを捨てられないとは考えず、なんと神の御子イエス様を、遠い存在ではなく、私たち人間に最も近い存在となる事を選ばれ、罪を犯さないこと以外においては人間と全く同じ姿かたちを取って来られ、しかも神の御子であられるのに、貧しい貧しい夫婦の元に生まれてこられた。神の御子であられるのに。
でも神様は1日だけ来られたわけではない。赤ちゃんとして生まれ、人と同じように生き、そして人に仕えられた。仕えさせるのではなく。そして神様の愛を惜しみなく注ぐべくご自身から近づいていった。尋ねて行かれた(もちろんイエス様のうわさを聞いて近づいてきた人もいましたが)。そして死刑囚も、当時差別されていたような人も、貧しい人も、子どもも、救いを求める政治家も、裏切る弟子たちにまで近くにおられ、彼らに愛を惜しみなく注ぎ、救いを示された。
でも、そこでは終わらなかった。イエス様は、私たちと最も近い関係となるために、私たちのような罪人は滅びゆくしかなかったのに、何とその罪人が受けるべき刑罰を身代りに引き受けられた、そして死なれ、葬られ、私たちが負うべきすべての苦しみに近づかれ、復活されたことによって、信じる私たちを神様の御許に、ご家族に、罪の奴隷であり滅び行くべき私たちを神様の子という最高の神様の近くに引き寄せられたのです。そして「神の中に生き、動き、また存在」する者とされたのです。この十字架によって結ばれる関係は、永久に途切れる事はありません。
私たちは救いを、本当のいのちを求め、罪の赦しを、真の神を求め捜し求める。しかし、それらを与えることができるのはただお一人、真の神様に他ならない。その神様から、近づいてこられ、あなたを取り戻すために、神の御子たるイエス様のいのちをあなたのために差し出してまで近づけようとされたのです。神様があなたを探しに来られたのです。
私たちはこの生きた真の神様の元に生きよう。この中にこそ真のいのちがある。喜びがある。あなたと世の終わりまでイエス様は共におられる、いのちさえあなたのために差し出されたイエス様が。あなたを探しに来られた主と共に今日も歩もう。神様は遠くない。そこいらの思想や八百万の神(偽神)の一つだとは考えず、この神様の身近にあり主と共に歩もうではありませんか。