「それにもかかわらず、彼らがその敵の国にいるときに、わたしは彼らを退けず、忌みきらって彼らを絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしは彼らの神、主である。わたしは彼らのために、彼らの先祖たちとの契約を思い起こそう。わたしは彼らを、異邦の民の目の前で、彼らの神となるために、エジプトの地から連れ出した。わたしは主である。」
レビ記26章44-45節
神様は、嘘をつかない。一度された約束は必ず果たされます。人のように契約を破棄されるような方ではありません。そのような方が他にどこにいるだろう?いやいない。何よりあなたは御子イエス様の血によって神様の子として契約が結ばれた。なんと感謝な事だろう。
さて、かつてイスラエルはエジプトの奴隷として捕らえられていました。今のイスラエルの辺りにもともと住んでいたのですが、世界的大飢饉から彼らを守るために、一人のイスラエル人・ヨセフを先にエジプトに遣わし(兄弟たちに奴隷として売られ、そこでもある程度成功を治めると、そこの女主人にはめられ、投獄)、その後神様の導きにより、その大飢饉の問題をパロに解き明かし、何と総理大臣となり、イスラエルはおろかエジプトまで救われたのでした。
しかし、その一人のイスラエル人ヨセフを通して神様がなされたことを知らない王朝が起こり、イスラエルは奴隷となるのでした。それなら、↑の神様の言葉は嘘だったのか?いえ、そうではない。神様はこの地に捕らえられている中でも彼らを繁栄させ、祝福されていた。いのちを守り、子孫を繁栄させるだけではなく、当時世界列強の一つエジプトの王さえ恐れさせるほどの存在にさせてくださっていたのでした。このままでは危険だから、彼らを奴隷としなければならない、ともう程に。そしてそれだけではなく、彼らを、モーセというリーダーを先頭に、いやそのモーセの前に神様が立ち、このエジプトと闘われ、彼らを救い出されたのでした。彼らを捕らえる闇、奴隷、エジプトに完全に勝利され、救い出された。そして、かつて彼らの祖先に約束されていた約束の地へと導き出されたのでした。
で、その途中で神様が約束されたのが↑の内容。↑のレビ記26章というところには、神様に従う時の祝福と、従わない時の呪いが(呪いというか、神様から離れる時に神様の恵みが離れていってそうなる、というある意味では自業自得な話なのですが、それを神様は望まない、神様の元から離れないでほしい、という訴えとして書き記された)記されています。余りに長いので省略しましたが。
そこには、衣食住の保障、霊的な補償、平和、安全、悩まされる事もなくて気ものぞき去られる、と約束されています。神様が、あなたを日々養い、私たちの築かない、自分では小さなことと思える事から心配する大きなことに至るまで心を配られ、養い守られると。だから、わたしに信頼してほしい、と。
一方で、従わないなら、肉体的、心的病、ききん、野獣の繁殖により人口が激減、戦争と極度の食糧不足、国土の荒廃を告げるのでした。神様の御手がそこにはないので、神様から離れたところにはいのちがない、だから神様に信頼してほしい、従ってほしい、ここにいのちがある、わたしはあなたを心に留めているんだ、と訴えているのです。それにもかかわらず従わないなら、と順々に今挙げたような問題が襲っていくことを告げ、頼むから帰ってきてほしい、と。
神様の前には祝福と呪いが置かれている。いや、本来的には神様は私たちを祝福されたいのです。だから、その呪いの問題を挙げた後に、もう一度↑のように、「それにもかかわらず、彼らがその敵の国にいるときに、わたしは彼らを退けず、忌みきらって彼らを絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしは彼らの神、主である」と訴えるのです。そんな奴らは知らん、滅び失せよ、と即座に切り捨てるなら神様は↑のような憐みなんかかけたりなんかされない。
残念ながらこの話を受けたイスラエルの民は困ったことがあると神様に助けを求めるけど、守られたらすぐに忘れて神様を捨てる、そんなことの繰り返し。そしてついには彼らはその王国はやがて、歴史を見てもわかる通り、北イスラエル王国はアッシリヤ帝国に、南ユダ帝国はバビロン帝国に捕囚されていくのでした。神様はそのたびにそのたびに、↑の約束を果たされようと、苦難の中にいるときにも、彼らが神さから離れているときでさえ、その憐み、愛を、助け手を送られていた、それにもかかわらず、彼らは神の国と呼ばれていたその繁栄の王国が崩れ去り、敵国の捕虜となっていくのでした。
彼らは、いや私たちもそう、神様を何度裏切ってきたことだろう。自分の思う通になる操り人形と思っていただろう(そんなものは神とは言わないですよね)。神様のくださっている者、いやあなた自身を疑い、他の神、思想を捜し求めてきたことだろう。神様はそれにもかかわらず、あなたが帰って来る道をいつも示していた、にもかかわらず、彼らは裏切り続け、捕囚されていった。
じゃあ↑の話はうそか?いえ。神様は確かにその捕囚地にあって、彼らを助ける預言者や、捕囚地の政治にかかわるようになって助ける人、王妃となって守り戦った人、たくさん神様はなんと、差し伸ばし続けていたのです。
神様の願いは、私たちが滅び失せる事ではない。だったらイスラエルの民も含め、私たちはとっくの昔に絶滅している。上の方に書いたこのレビ記26章にしるされている呪いを私たちは受けなければならなかった。だって契約を守られる神様はその点においてだって実行に移され、私たちは滅びるしかなかったのです。
しかし、「それにもかかわらず」神様は私たちに憐みを示され、私たちが受けなければいけないこれらの呪い、罪の呪い、刑罰を、神の御子たるイエス様に背負わせ、身代わりに罰するという決断をされたのです。あなたが受ける呪いを祝福に変えるために。あなたが罪の奴隷として、敵の国、サタンの手に、悲しみ絶望の中にとらわれているあなたが滅びる事がないよう、その罪を、呪いを、一手にその御背中に背負われ十字架に架かられ、死なれた。私たちが受けなければならない刑罰も、受けている苦しみも重荷も全部背負って。身代りに死なれ、またよみがえられたことによって、御子イエス様をあなたの罪を身代りに贖ってくださった救い主として信じるとき、あなたもその捕囚地、呪い、裁きの中から死の中から、墓場から引き上げてくださるのです。神様の子として御子イエス様の十字架の血によって迎え入れてくださる、契約してくださるのです。その血によって、私たちはもはやサタンの手に陥ることも、永遠の裁きを受ける事もない。御子イエス様の血によって結ばれたこの関係を何物も引き離す事はできないのです。
私たちはもう神様を試す必要などない。あなたが十字架の前に悔い改めるならもう神様のもの・子。罪の奴隷でもなんでもない。ならばもう私たちはこの神様に信頼して歩もうではありませんか。あなたの神様、主となるために、この呪いを御子イエス様に背負わせそのいのちの代価を持ってまで取り戻される神様が共におられるなら何を恐れる必要があるだろう。いやむしろこの方に何でも祈りはなし、神様があなたのうちに働かれることを切に祈り求めようではないですか。だって、あなたは御子イエス様のいのちという代価を支払ってでも取り戻された存在なのですから。その神様があなたのうちに注がれる愛、ご計画が、今この瞬間試練の中にあろうとも悪い者であるはずがないでしょう。あなたは呪われるべき物から神様の子へと変えられたのだから。
今日主の前に帰ろう。主に信頼し、この神様と共に歩もうではありませんか。御子イエス様のいのち、その御血によって結ばれた契約を破らない、と誓われる神様に信頼し、自分の目には苦難でも「それにもかかわらず」あなたのうちに御心をなしてくださる神様に信頼し歩もうではありませんか。