ーイエス様にあって実現した幸福ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「見よ。わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らしたすべての国々から彼らを集め、この所に帰らせ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え、わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。わたしは彼らを幸福にして、彼らをわたしの喜びとし、真実をもって、心を尽くし思いを尽くして、彼らをこの国に植えよう。」

エレミヤ書3237-41

 

神様の私たちに対する思いは、私たちが幸福となる事。私たちが神様と共に歩み、そのうちに本当の幸福を得ること。

 

昔、イスラエル王国は、神様の恵みと憐みによって、建て上げられました。まあ本来そこは神様が彼らに与え、また彼らの先祖も住んでいた地域だったのですが、飢饉から非難するために一時的にエジプトに避難し(その飢饉からも神様はヨセフを先に遣わし、奴隷から総理大臣となり、その彼を通して救われたのですが)その間に他の民に住まわれてしまっていた、というのもあり、彼らと闘わなければならない(まあそこに住む民たちにも悔い改めのチャンスはあったのですが)状況下、神様がイスラエルの民と共に戦われ、その地をイスラエルのものとされ、彼らは自分たちの力によってではなく、神様のその導きのもとでその国が建て上げられていったのでした。

 

ところが、王たちは神様から離れ、捨て、神様よりも生きてもいない、物でしかない偶像や異文化の思想によって生き、モラルも低下、子どもを火にくべるといった恐ろしい儀式を行ったりと、もう滅茶苦茶になった。それゆえに神様の祝福は離れ、来た王国はアッシリヤに、南ユダはバビロンによって捕囚されるのでした。彼らは神様に見捨てられてもおかしくはない、仕方がない状態だった。

 

でも、エレミヤさんという人を通して↑のように神様は約束されたのです。神様は彼らを見捨てていなかったのです。見捨てられなかった。確かに捕囚に会う。しかし、必ず彼らをこの地に連れ戻す、と捕囚に会う前から約束されていたのです。何という希望だろう。それだけではない、帰って来るまでは神様は彼らを放置されていたのか?とんでもない。神様は彼らの幸福を願う故に、やはり見捨てられなかった。その散らされた地にあっても神様はご自身の愛を現し、また必要な助け手を起こし、心の支えや、捕囚地の中枢に人を建ててイスラエルの民を守らせたのです。彼らを通して神様は働かれて、守られ、ついには異国の王にその捕囚していた国を討たせイスラエルの民を解放させたのでした。

 

神様は解放の約束を先にしながら神様に希望があるんだ、とその心を向けさせようとしたのです。神様は真実で正しく、必ずその約束を成就させる方。彼らを安らかに住まわせ、また今彼らがいる苦難を必ず撃ち砕き、そこから救い出す、神様ご自身が彼らの神様となって、彼らを幸福にし、喜ばせ、真実を尽くして、心を尽くしてあなたを植える、と。だから、もう神様から離れず、わたしに希望を持ち、ここに生きるように、と訴えたのです。この約束をするわたしがあなたと共にいるのだから、と。あなたを忘れていない、と。彼らから離れない、と。

 

でもこの話はここでは終わらない。実はこの約束は彼らに対してだけのものではないのです。この約束、「一つの心と一つの道」、救いの約束、幸福の約束を、御子イエス様にあって私たちに成し遂げられるのです。神様のこの私たちへの心、思い、この救いの道をイエス様にあって成就された。彼らが支払った罰、私たちが支払うべき罪の罰、彼らのように神様を操り人形のようにしか見なかったり、すぐに疑い離れ、切り捨てる、愛のない私たち、見捨てられてもおかしくなかったのに、彼らを見捨てなかった神様は私たちをもやはり見捨てられなかった。だって、神様が私たちを精魂込めて愛を持って造られたのだから、滅びゆく事など我慢できない。

 

この断絶された神様とイスラエルの民のように、私たちと神様を回復させ、和解させるために御子イエス様が身代わりにその罰を支払われた。十字架に架かられて死なれ、そのいのちをもって贖われた。そして復活され、私たちも墓の中からこの救いを信じ受け入れる人を共に神様のところに引き戻してくださったのです。死んだ捕囚の地から、罪の奴隷から、サタンの暗闇から、神様のいのちのない死から、永遠の刑罰から。連れ戻すという約束を御子イエス様によって成就されたのです。

 

その契約、もう一度↑のことばをじっと熟聴するとどうだろう?驚くべき喜びがあなたのうちから湧き上ってこないだろうか?神様はイエス様の十字架の前に罪を悔い改め、神様に帰るなら、あなたを安らかに住まわせる、つまりあなたがその捕囚地に、問題、暗闇、病、その他諸々戦いにあっても共におられる。あなたを囲う問題におそれの心を与える、だから私たちは恐れる必要がない。その契約はとこしえの物であり、あなたは神様の喜びであり、あなたとの関係において、真実を尽くして心と思いを尽くされる。何という幸福だろう。

 

あなたが神様に帰る、御子イエス様にあって和解し、神様のくださる幸福を得る、これこそ神様の心ではないか。この神様の訴えをあなたはどう思うだろう?この思いを実現するためなら、と御子イエス様を十字架に架けて死なせてまでもその愛を示される、行動に移される神様にあなたは何を思うだろう?

 

もう、私たちは他の生きてもいない死んだ偽神により頼む必要はない。神様はあなたを待っている。神様が私たちに望む事は、宗教的行為ではない、あなた自身、あなたが神様の元に悔い改め返ることに他ならない。今日、真の神様の元に帰り、自身を神様にお返しし、神様の喜びの中、神様と共に歩もう。あなたはもう神様の子。神様の喜び。