ー存在の出発点に帰る。そこが私たちの分岐点ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、使いがヨブのところに来て言った。『牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。』この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。『神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。』この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。『カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。』この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。『あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです。』このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、そして言った。『私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。』ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。」 ヨブ記113-22

 

聖書の中でこれほど苦難にあった人はイエスキリストを除いてはいないだろう、という人の一人にヨブという人。↑の話を読んだだけで何と恐ろしい話!可哀そう、そんな感想があっちこっちからきっと出てくるでしょう。まあこの後実はさらに不幸が続いていくのですが。まあこの背後にサタンが動いて、ヨブに神様を呪わせ捨てさせようとしていた思惑があったのですが。

 

長いのでざっと↑の話をおさらいすると、まず彼は結構な富豪だったのですが、その所有の家畜が奪われ、召し使いたちが殺され、次々と失っていき、ついには息子さんや娘さんが倒壊した家によって死んでしまった、と。短くまとめるとあれですが、いっぺんにこんな不幸が起こった。

 

私もある年に、母があり得ない理由で突然事故死し(そのありえない理由はとてもここには書けないことをされていたゆえ)、とりあえず父と家を建て直そうとしていた矢先に今度は父が脳内出血で倒れた、ということが同じ年に起こりました。しかも兄たちは障害があってお金の管理もできないし、突発的にアクシデントがあったり…そんなものでしごともできなくなるし(何かあれば父のところに駆けつけたりしなければいけないのでフルタイムでは迷惑がかかるので無理だった)もうどうにもならず、神様をそれこそサタンの策略じゃないですけど呪って捨てたい、そう思うような事があった。

 

まあ、人それぞれ大変なことは凄く多い。偉そうに何かを押し付けるようにアドバイスできるものでもない。もしくはこのヨブさんのような不幸まで行かなくても問題は人は山積み。戦いもあれば、悩みもある。

 

そんな中、ヨブさんという人は神様を呪ったか?捨てたか?呪わなかったし捨てなかった。この後友人たちが彼を励まし(だんだんお前が悪い、と責めはじめるのですが)に来ても、彼が向かっていた先は神様だった。

 

彼はこの出来事があった時こう言いました。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」。そう、彼の支えはここにあったのです。

 

ちょっといまいちぴんと来ない表現ですし、とてもそんなこと言えない、というか母の胎には帰れないでしょとツッコミが入りそうですが、この母、という言葉は厳密には「存在の出発点、分岐点」という意味だそうです。彼は自分自身という存在は神様から始まった存在なんだ。神様が私を形作り、いのちを与え、神様から私の人生が始まったんだ。自分は何も持っていなかったけど、神様が私という人を造り上げてくださったんだ。ならば私は神様の元に帰ろう。そう彼は考えたのです。時には何かを失う日もあれば、時には神様が与えられる日もある。全ては神様の御手にある、ならば私は神様に帰ろう、と。あなたをそれでも神様として従います、と。ここに分岐点がある、と。

 

私たちはこのヨブのことばをよく覚えておきたいものです。別に不幸があるからそこに帰る、とかそういうわけではなく、問題があるからそこに帰るのではなく、私たちという存在は神様から出発して始まる。このいのちは神様によって与えられたもの。私たちは何も持って生まれなかったし、自分の力でこの体を造り上げてきたわけではない、全て神様の御手の中守られ、今の私が、あなたがあるのです。

 

確かに、サタンは、この世はあなたを悩ませ、様々な物を奪うかもしれない。そして神様からあなたを引き離そうとするかもしれない。でも、もっと深いところを思い出してほしい。神様は、本来罪人である私たちと断絶し、見捨てられてもおかしくない私たちになおその恩目を注がれ、私たちがサタンからそのいのちを奪わせないため、死・永遠の滅びを受けることなく永遠のいのちを与えるために、ご自分の御子イエス様をあなたに与え、あなたのために御子のいのちを惜しまず与えんがために十字架に架けられたのです。そうしてまでもあなたを取り戻し、永遠のいのちを与えようとされた。私たちの罪を「取り除き」永遠のいのちを「与え」、御子イエス様によって私たちに神様の子としての特権、神様との和解を与えられたのです。あなたの新しいいのちは、この御子イエス様の十字架と復活から始まっているのです。あの悲しみの墓を打ち破られたイエス様は、あなたを倉石の墓の中に閉じ込めたままにされたくないのです。

 

この関係において神様は、私たちの目から見たらベストではない者でも神様の目においてベストをいつも与えられる。それは自分の中では何かを取られた~と感じるようなことかもしれない。でも神様はその御子イエス様の十字架による和解された真の親子関係において、御子イエス様のいのちとともに良きものをいつもあなたのために準備されているのです

 

私たちの「母」、もとい、いのちの分岐点はこの十字架にある。神様の前に悔い改め立ち返り、神様と和解させていただき、永遠のいのち、神様とのいのちの道を歩む道と、神様を捨てて死に向かう道。そしていつでもイエス様は私たちが帰るのを待っておられる。だから私たちはこの存在の原点、私たちが神様のものとされたこの喜びの原点に帰ろう。ここにこそ、本来神様が私たちに願う本来の姿、ご計画がある。ここに帰ろう。

 

あなたはあなたの出発点、分岐点をどこに置いていますか?