「週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。見ると、石が墓からわきにころがしてあった。入って見ると、主イエスのからだはなかった。そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。『あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。』女たちはイエスのみことばを思い出した。そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。」
ルカによる福音書24章1-11節
イエス様は死んで終わらなかった。私たちの代わりに罰を受けて終わり、ではなかった。そこから父なる神様によってよみがえらされたのでした。ここに私たちの希望が、平安があります。
今から約2000年ほど前にイエス様は人となって私たちのところに生まれてこられた。神様の子であるにもかかわらずそのあり方を捨てられないとは考えず、罪を犯さないという点以外においてすべてにおいて人と同じ性質を持ってこられた。鞭を討たれれば肉も避けるし血も流す、それでもイエス様は裏切っていく弟子たち、自分の思う通にならないイエス様を十字架に架けてた彼らを見ても、何一つ文句を言わず、こんな奴ら救ってやるか!と言って十字架から降りる事もしなかった。むしろこのまま彼らが神様から捨てられ、ついには滅びて行くことが我慢ならない、神様を知らずにい来る彼らを哀れに思われた。だから、彼らの罪さえも身代りに背負われて死なれた。罪を何一つ犯したこともなく、神様を愛し、死にまで従われたのに。そして私たちが罪ゆえに最後は罰せられ、陰府に行くべきその代わりに降って行かれた…
このイエス様に従ってきた人たちはどれだけ絶望に包まれたことでしょう。愛するイエス様が死んでしまった。もうどうしたらいいんだ?イエス様を裏切ったお弟子さんたちを含め、上の話に登場する女性たちも含め、本当に絶望の中にいました。彼らはこれからどう生きようと思ったのだろう?イエス様の愛を心に秘めて、私たちが言うような「私の心に今も生きている」的な感じで生きようとか、あの言葉を教訓に生きよう、とかそんなことを考えていたのか?そしてせめて匂いを抑えようと、香料を用意して持っていくのでした。
でもイエス様が来られたのは、私たちの何となくの心の希望を与えるために来られたわけでもなければ、どこかの宗教家のような何か人生の教訓を与えるために来られたわけでも死なれたわけでもないのです。これ、私たちよく勘違いします。そんなことのためだったら十字架になんかかかりませんし、わざわざ死んだりしません。何で神の御子たるイエス様がそれだったら十字架に架かって死なれる必要があるんですか。
そう、イエス様はよみがえられたのです。イエス様の死、墓の中、生との間にどうにもし難い壁・死が立ちふさがっていた、それが打ち破られたのです。御使いはこの希望を絶望の中墓に来た女性たちに「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう」と伝えるのでした。
神様はイエス様を死の中に閉じ込めなかった。罰したままでは終わらせなかった。もしそのままだったら私たちの罪は赦されません。イエス様は私たちの罪を背負われて十字架に架かられ、死なれた。そのまま復活がなければ私たちの罪は赦されません。どうしてか?赦しの宣言がないからです。身代りに罪を背負われ死なれたイエス様が陰府の中に閉じ込められるなら、私たちも罰せられてそのまま罰せられたまま。神様とそのまま永遠の断絶。死、それしか待っていないのです。
パウロもその手紙の中で「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです」と書き残しました。
神様はそれを望まなかった。イエス様をよみがえらせることによって、その罰をもうよい、とされたのです。私たちの罪を身代りに背負われ十字架に架かられ死なれた、もうそのいのちで十分だ、と神様はよしとされ、死の中にいる神様と断絶された中にいる私たちと神様の愛だの、いかんともし難いその墓の石を神様ごによって取り除き、和解を果たしてくださったのです。
心の中に生きているだの人生の教訓だのというレベルの話ではない。この復活によって私たちがイエス様を救い主として、イエス様が自分の罪の身代わりとなって死なれ、またよみがえられたことを信じるなら、イエス様のいのちによって支払い済みだ、と私たちの罪の代価は取り除かれ、神様の子とされ、和解を果たすのです。もう神様と私たちを邪魔する隔ての壁はもうないのです。そんなものは打ち砕かれた。私たちが新しく神様と自分の間に壁を用意しない限りは。いや、最初から神様は私たちと和解しようとずっと愛を示されていた。だからまずその愛を知らせるために、イエス様を十字架に架けてその壁を壊すという決断に至ったのですが。その和解、愛は誰か特別な人のためだけではない、いまいち聖書にあまり登場しないような人物や、当時人数に数えられない女性の前にさえ現れた。この復活の約束は、あなたにも与えられているのです。
ここにいのちがあるのです。ここに希望があるのです。あなたの重荷も痛みも罪も全部十字架で葬られ、打ち砕かれて復活されたイエス様がよみがえられた。イエス様は過去の人ではない。あなたが本来あるべき姿、神様との正しい関係、真の父なる神様と子という関係に私たちを入れてくださり、世の終わりまで私たちと共に歩まれ、導かれ、ご自身を、イエス様のいのちを持ってまで取り戻された神様の愛、ご計画があなたのうちに注がれる。あなたに語り励まし、生きて共に進まれる。
弟子たちは常識にとらわれ、女性たちの証言をすぐに信じ受け入れることはできませんでした。死んだら終わり。どこかの宗教観みたいな、世の価値観のようなものと同列にイエス様の死を考えてしまった。まあそのために弟子たちの前にもイエス様は現れてくださったのですが。
私たちはこの復活を世の常識で見てはいけない。教訓だの、イエス様を昔の人で終わらせてはいけない。死なれて終わり、ありがとう、で終わってはいけない。この復活のいのちを私たちが頂かなければ何の意味もない。神様とあなたとの和解はない。まことのいのち、永遠のいのちをあなたは受けることができるのです、人生の教訓だのそんなレベルの話ではない。あなたはこのいのちを握りしめている。そして死して後そこで終わるのではない、あなたは天の御国で神様と永遠に住まうのです。あなたの歩みのすべては神様に通じ、繋がっている。
あなたはこのイエス様の十字架と復活をどう見ているだろうか?この復活のいのちをいただいた今どう歩むだろうか?