ー信頼する。何に?ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「彼(ヒゼキヤ)はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。彼は主に堅くすがって離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。主は彼とともにおられた。彼はどこへ出陣しても勝利を収めた。彼はアッシリヤの王に反逆し、彼に仕えなかった。彼はペリシテ人を打ってガザにまで至り、見張りのやぐらから城壁のある町に至るその領土を打ち破った。」

Ⅱ列王記185-8

 

人は一人では生きていくことはできない。これは神様も一番最初のころにおっしゃっていた。人が一人でいるのはよくない、と。では私たちは誰と共に歩むのだろう?忘れてはいけないのは、神様が少なからずともにおられる、これを忘れてはいけない。ここにいのちがあることを。

 

昔、ヒゼキヤ王という人がいました。彼は政治家としても非常に有能でした。上に挙げたもの明けではなく国民の生活をしっかりとさせるために用水路をしっかりさせたり、何というか、神様を恐れ、人を愛する王の一人だったのかな、と思います。神様を求め従う彼を通して神様は祝福されていました。

 

一見ヒゼキヤは簡単に何でもやっていたように感じるのですが、実は彼の生きていた時代はとんでもない苦難の時でした。国のモラルはもう過去の王たちによって低下しているし、しかも当時最強と言われたアッシリヤ帝国(事実北イスラエルは彼らによって捕囚された)が迫っている状態。そんな目の前にどうしようもない課題を抱えている状態にあったのでした。

 

私たちはそんな時「自分の力ではどうにもしようがない」と考えてしまう。そして自分の目で見た状況で判断し、神様がどれだけ力ある方なのか、また愛し、これまで救われてきたのか、見捨てずにその恩目を注がれているのかを忘れ、「神などに従ったって何の意味があるんだ?」と考える。そんなことをしている暇はない、御言葉に従ったって何になる?祈っている暇があったらもっとあれしてこれして…となっていく…

 

そんな状況で見えない神様に信頼するなんてバカらしい、と世の人は言うかもしれない。私はこんな不幸に囲まれている。神様に見捨てられたんだ、こんな者は滅びるべきだ、と…

 

ちょっと状況をもう少し解説すると、もうヒゼキヤ王のいる南ユダが捕囚される事はもう決まっていた事でした。普通なら、どうせ滅びるんだし、と諦めるところだろう。

 

でも彼は自分がそこに立たされている間は今できることをしよう。神様に信頼しよう、どんなに絶望的に見えても、彼は神様が共にいるなら、とただ神様のご計画がなる事を願い信頼した。その彼を通して事実、今この時において神様は周りの敵国を打ち破り、また内政においても祝福された。

 

ちょっと厳しいことを書く事を赦してほしいのですが、神様を信頼する事は理屈ではないんです。あれをしてくれたら、よし信頼しよう、あれをしてくれないなら神様に従うのはやめよう、そういうものではないんです。

 

ヒゼキヤの状況は、理屈を並べたら、神様の助けを待つよりも少しでも早く戦いに出て行く事、もしくは周りの列強の国々と協力する方が手っ取り早かったでしょう。理屈を並べるなら。でも、彼はその前に神様に祈り御言葉に従うことを決断したのでした。こんなこと書いてあるけど今の私の状況に合わない、私には関係ない、とはせずに、この見捨てられてもおかしくなイスラエルをなお神様が見捨てず覚えてくださっている、その愛に信頼したのです。

 

どうか忘れないでほしいのは、あなたは、神様から勝手に離れすぐに神様の愛を否定し離れていく私たちを、自分の思う通になる神を求める私たちを、見捨てられず、それでも私たちの罪をご自分のひとり子なる御子イエスキリスト様に、何の罪もないイエス様に背負わせ、身代わりに罰を受けさせる、死という代価を支払わせてまであなたを愛し、また取り戻そうとされたということを

 

何てばかばかしい話だ、愚かなことだ、と世の人は言うかもしれない。そんなことを信じたって何になる?と思うかもしれない。ヒゼキヤのような状況にあろうと、普段にあっても、別に神を求めたって意味はないでしょう、という人がいるかもしれない。でも、あなたはこの時断絶された神様との関係が修復され、神様の子とされるその恵みを受けるのです。それがどんなものか、それはあなたと神様の関係に置けることだからこうなります、とは軽々しくは言えませんが、少なからず、ご自分の御子イエス様のいのちの私たち罪の代価として支払うことができる神様が、そこまでしてでもご自分の者と、ご自分の家族に、神様の子としてくださった神様のご栄光が、あなたのうちに現される。その神様があなたと共に歩まれる

 

それはここの所書いていますが、世の与えるものと違いますから、信頼するのは大変かもしれない。ヒゼキヤだって信頼して何を得るかなんて知らなかった。でも彼は絶望的な中にあっても彼の生涯の中にあって神様が豊かにあらゆる面でありえない祝福をされた。何があるとわかるから信じる信じないではない。これをしてくれるなら信じる信じないではない。

 

ただいえることは何度も繰り返しますが、あなたはイエス様のいのちという代価を支払ってでも愛を注ぎたいと決断し行動された神様が、あなたが帰り、あなたと本来ある命ある関係を持ちたいと願い、イエス様を十字架に架けて死にまで渡されたということを忘れないでください。

 

「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないことを確信させるものです」。「神様の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすればそれに加えてこれらの物は一切与えられる」。私たちはこの神様が与えてくださる「何か」、神様しか与えることのできない御子イエス様のいのちさえ与えられた神様が、それによって取り戻された関係において与えてくださる最善を信じ、御言葉を握りしめ、理屈じゃない、このイエス様の十字架にある救いの喜びに立って歩もうではありませんか。

 

「主は彼とともにおられた」。それゆえに「彼はどこへ出陣しても勝利を収めた」。あなたは今日、誰に信頼しますか?