「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。」
伝道者の書11章1節
人の苦手な事、ごめんなさい、白状しますと私もですが、それは待つ事。本当にこれが苦手。祈りが答えられないと、神様は私のことを愛していないんじゃないか、と神様の御心がなるのを待てない。
昔イスラエルの3代目の王として、富と名誉を世界中に馳せたソロモン王という王様が上のことばを残しました。これをそのまま字義通りに読むと、「何ともったいないことを!食べ物を粗末にするな!」なんて言われてしまいそうですが、このパンという言葉は、正確には「あなたの必要」という意味なんだそうです。まあもうちょっというと、「投げよ」ということばも、「向けなさい」という意味なんだそうですが。
このような慣用的な言葉は解説が必要なので、ちょっと硬い話になってしまいましたが、ちょっと考えてみますと、種は食べればそれで終わり、でも植えればもっと多くの実を食べることができますね。確かに、パンを水の上に投げたら無駄になってしまうかもしれない。神様に祈り求めたって何になる?と疑うかもしれない。でも神様はご自身の元に来る人を拒まれない(昨日も投稿しましたが、イエス様に救いを求め来る人を決して捨てない、と約束されました)のです。神様は、私たちが神様に委ねるときに、神様がその必要を思いもよらない形で、それこそ1粒の種を植えることでその1粒は死んでも、多くの実を結ばせるように、神様があなたのうちに多くの実を結ばせてくださる。
上のことばを残したのは先ほどソロモン王であり、多くの豊と知恵、名声を得た、と書きましたが、彼はさほど優れた人間だったわけではありません。最初から。彼は自分のこうしたいああしたい、だから神様、助けて、と祈ったのではなく、自分の弱さを認めて、自分が力もなく若く弱い者であることを認めた。そして神様の御心がこの国になる事を、神様の御心に従う知恵を求めた。その結果として、神様に従っているうちは本当に王国は繁栄し、神様を求め遠い異国の知から女王自ら尋ねてくることもあった。もしかしたら、そのことがきっかけで、後になっても神様をその国で求める人がいたのかもしれませんが。まあ残念ながら後にソロモンは自分の繁栄を求め始めた結果として国民は離れ、王国は分裂していくのですが。その最後は悲惨。
話を戻して、私たちの必要を神様に委ねる、ということは自暴自棄なことではない、いわゆる投資的な物でもない。神様に自分の思い煩いも全部丸ごと、自分ごと、あなたごと飛び込んでいく、ということです。試すまでもない。だってあなたは神様に愛されているのだから。
神様が与えたいのはあなたのある一時の必要ではない。あなた自身そのものに真のいのちを、祝福を与えたいのです。私たちがどこに救いを求めたらいいのかわからず、神様を知っているにもかかわらず信用しようともせず、むしろ自分の栄光を求め神様の最善のあなたへのご計画、いのちから離れていくそのような私たち。そんなすぐに神様から離れる私たちなんて、私なんて神様から投げ捨てられてもおかしくはない。でも神様は、そのあなた自身を取り戻したかったのです。このまま罪の奴隷に、死に向かっていく、裁きに向かっていくのは忍びない、だから、私たちを救うために、御子イエス様に身代りに私たちの罪の刑罰を背負わせ罰せられた。でもそこで終わらずに、よみがえらせてくださったことによって、信じる私たちも神様との断絶されたいのちの関係を取り戻し、神様のものと、神様の子としていただけるのです。
あなたがそんな神様など信じたって何になる?と救いを求めず留まるのではなく、あなたがこの神様の前に悔い改め、本当の必要である罪の赦し、救いを求めるならあなたはこのいのちを見出すのです。そのイエス様の十字架の地によって結ばれ取り戻された神様との関係において、神様はあなたの見えない中においても働かれ、万事を益と変えてくださるのです。それを後の日には見出す。それは、世にある者とは違う、あなたの求めている通りとは違うかもしれない。でも親が子に最善を与えないわけがないように、神様はあなたにあなたが思う以上のベストへと導いてくださるのです。イエス様にあって回復された、契約が結ばれたあなたとの真の親子関係において。いや、後の日には、死して後、栄光のイエス様と天の御国でお会いするのです。この世では与えることのできない最高の御国を、イエス様の治める御国に招かれるのです。
イエス様を十字架に架ける事など、ある意味では水の上にパンを投げるくらい愚かな行為とおもかもしれない。最初に私が描いたように、「なんてもったいないことを」ということかもしれない。でも神の御子イエス様のいのちを私たちのために十字架に架けて死に渡すなんて愚かな行為に見えても、あなたのためならその決断をされるのです。後の日になってあなたが救われる事を、御子イエス様を救い主として信じ、一人でも多くの人が現れることを期待して。
そこまでしてでも取り戻されたのがあなたです。あなたの本当の必要を、罪の赦し、永遠のいのちを、いのちをこの十字架に求めよう。この十字架に向けよう。このイエス様によって取り戻された関係にあなたの必要を向けよう。神様はあなたにイエス様のいのちを与えることをもったいない、無駄などとは考えずに惜しまず与えられた方。
あなたは今日、誰に何を求めるでしょう?あなたを今日も待っているイエス様に心を注ぎ出し祈り委ね共に進もうではありませんか。
「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」