「シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。『見よ。あなたがたの神を。』見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」
イザヤ書40章9-11節
神様は座して何もしない神様ではない。行動する神様です。
ものを語れない神様ではない、語られる神様です。
まあ、日本に住んでいるとどうしても神様のイメージがこう、お寺だの神社だの、お地蔵だののイメージから、何もしない、語らない神、お賽銭みたいなのをしたり修行して、なんとなくわかった「気がする」、気分が少し晴れた「気がする」ようになるだけ。本心では彼らは分かっている、そこに鼻にもいないことを。お寺の人とかが一番知っているのでは?と個人的に思うのですが。
でも、この天地万物を造られ、あなたをも造られた唯一真の神様は、何か良いことをしたら仕方がない、と言って腰を上げて何かする神様はない。人が神様をコントロールするなんてできる方ではない、神様ご自身が愛の方であり、その愛ゆえに私たちに向けて行動される、語られる神様なのです。
上のことばを書いたイザヤさんという人は、人に神様から預かった言葉を語り、またとりなし、また人のために祈る人でした。しかしその時代は悪が栄え、しかも敵国に囲まれ困難極みない時代にありました。普通なら、そんな状況に囲まれれば、ほらやっぱり神などいないじゃないか、というでしょう。ないし、上のような言葉なんて残すはずがない、嘘なら。でも、捕囚の危機にあろうと、捕囚に会おうと、苦難困難の中にあろうと、敵に囲まれようと、神様を見上げるように、と語るのです。偶像や存在もしない神、まあ居もしない、存在しない者に対して神という固有名詞を付けることは吐き気がするんですが、そんなものと真の神様を一緒にしないで、あなたのために行動する神様、あなたのために語られる神様、苦難の中にあって抱き寄せ、引き寄せ、また養い、またその道を導かれる神様の元に行け、というのです。
事実神様はその約束通り、捕囚の地にあっても何人もの預言者や助け手をその地その地に置かれ、民のうちに彼らを通して愛を注がれ、また捕囚の地から約束通り連れ戻してくださった。
でも、神様の愛はそこでは終わらなかった。
それでも神様を神様とできずに離れていく民、むしろ自分が神であろうとする民たち、これだけ神様が愛を注いでも悔い改め神様に帰らない彼らを神様は…見捨てられなかった。神様はロボットじゃないし、悲しまれる。神様の愛を知らずに死にゆく彼らを神様は悲しまれ、ついにご自分の御子イエス様を彼らのために与える、人として私たちのところに送られたのです。最も弱い姿を取られ。信じられますか?神であられるのに、人となって来られた。スーパーマンのような姿ではない、走れば疲れ、傷つけば血を流す、罪を犯す以外私たちと何も変わらない姿を取って来られた。そして、具体的に救いを必要とする人たち、いや必要としない人はいないのですが、社会から見捨てられた人、こんな人が救われるわけないじゃん、と周りから罵られていた人、ついには死刑囚の横にまで行かれた。そして救いの道を、いのちを、示されたのです。無実なのに、私たちの罪を一切身代りに背負われ、私たちの代わりに死刑囚となられ、罰せられた。降りることもできるだろうに下りずに、私たちの罪を身代りにその身に負われた…そこまで神様は私たちを愛されているのです。あなたのために行動を起こされる神様なのです。あなたのために語られる神様なのです。
神様は、一時的な関係のために来られたのではない、私たちを救い、神様の子として受け入れるために来られた。ここにこそ命がある。ここに愛がある。ここに私たちの救いがある。力ある、あなたのために御子さえ惜しまず与え、また語られる真の神様に今日わたしたちは帰り、この方を神様とし迎え、またこの方と共に今日も歩もうではありませんか。いのちさえ惜しまず与えられる方に期待しながら。