ーいのちがけの関係ー | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神(いのち)を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

申命記64-5

 

私たちにとって最も大事なこと。神様を愛する、神様と共に生きる、この関係の中にこそ、いのちがある。祝福がある。ここには書ききれないほどたくさんの祝福があるんです。それは細部にまでわたり、収穫、健康、家庭、様々な戦いにおける勝利などなど。しかし従わないところにはそれらは離れていく…聖書の中にある申命記にはそうした約束が書いてあるんですね。ぜひ時間がある方は一度読んでみることをお勧めします。

 

でも、なんでここまで言う必要があるんだろう?どうしてわざわざ従わなければ…なんて書き出す必要があるのか?いやむしろこの中に全部あるのだから、他の存在もしない神なども留める必要なんかない、むしろそうした存在もしない、またそこに引き込もうとする罪、サタンから離れ、神様のところに帰ることを願っているのではないでしょうか。

 

イエス様は、ある人から最も大事なことはなんですか?と尋ねられた時に一番最初に取り上げたのが、上にかかれた律法の1つを引用されました。ちなみに最近出た新改訳2017の訳では、心を尽くし、「いのち」を尽くして、と訳されています。私たちは命がけで神様により頼め、いのちの限りより頼むことを勧めるのです。より頼むところはここなんだ、と。

 

でもね、神様はこれを言いっぱなしにするわけではないんですよ。お前らは私に奴隷のように服従しろよ、そう脅しかけているわけではないのです。むしろ「神様が」私たちにいのちをかけてくださるのです。そう、神様の御子イエス様のいのちをかけて私たちを愛されたのです。わざわざ人という弱い姿を神であられるのに取って来られ、殺される危険がある時であっても必要な人のところに、駆けつけて答えて行った。そして何より私たちにとって最も必要な罪の赦し、罪からの救い、神様との断絶された関係の回復、そのために私たちが負うべき罪・罰を身代りに背負われ、十字架上で死なれる、その選択をしてまであなたを愛されるのです。

 

みなさん、神様の愛はいのちがけなんですよ?信じられますか?命がけで神様はあなたを愛されているのです。私たちが滅びる事ないように。そこいらにある「宗教」とはわけが違う。お布施だのなんだのと要求ばかりして何もしない偶像、存在もしない偽の神(神という固有名詞を付けること自体が存在もしないのでおかしな話なのですが)とはわけが違う。真の神様は、今も生きておられる神様は、あなたのためにご自分の御子イエス様のいのちさえ惜しまず与える神様は、命がけであなたのために行動される神様なのです。

 

ならば私たちもいのちがけで神様の祈り求めようではありませんか。私の思う通にならない?違う、これほどに愛される神様がそこまで愛される神様の目から見た私たちにとっての最善に導かれる事を信じ、期待しようではありませんか。そのために必要な全ては主は備えてくださる。主は遠く離れたところであれ白これしろ、という神様ではない、あなたのうちに住まわれ、導かれる神様です。ただこの神様に信頼し、ついていこうではありませんか。そこには御子イエス様のいのちをかけて取り戻された神様とのいのちあふれる関係が待っているから。