ー幸せのありかー | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」

ーⅢヨハネの手紙2節ー

 

人の幸せはどこからくるのか?人は幸せを求める。何を得たらでは幸せになるのだろう?私たちはその何かを探し、その渇きを満たそうとしますが、それを見出す事はできない…これだ、と思ってもそれはいつまでも満たさない。それはたぶん多くの人が体験している事でしょう。なぜか?それは生きたものではないから。では幸せはどこに?それは神様の御子イエス様のもとにこそあるのです。

 

上のことばを書いたヨハネさんという人は、漁師出身。後にイエス様に出会い、永遠のいのちを頂きました。しかし彼のその後の生涯はじゃあ楽だったかと言われたらむしろ迫害もあれば殺されそうになった事だって幾度も。煮えたぎる油の中に入れられたこともあるそうな…そんな彼がなぜ晩年こんなことを書いたのか?それは彼の生涯の中、殉教の時も逆境の時も、楽しい時も悩みの日も、いつもイエス様が彼の内に生きて働き、励まし慰め、導かれた。彼の日々の中に神様ご自身から来る喜びが、あった。だからこそ、それは大変だったけど、幸いだったんだよ、と上のように残したのです。

 

神様は、私たちのある一点だけに関心を持たれる方ではない。私たちが全ての点において神様のいのちで満たしたいのです。だから、神様は時々助けるような希薄な関係を私たちと結ぼうとはされなかった。私たちを、あなたを、罪の底から、奴隷から、その呪いから、罪ゆえに神様と断絶されてしまったその悲しみから、死にゆくところから救いだし、真の神様との関係を取り戻したかったのです。私たちから発した話ではないですよ?神様からの愛の思いだったのです。

 

そこで、私たちが本来罪ゆえに支払わなければならない罰を御子イエス様に全部背負わせて十字架に架かって身代りに死なれたのです。でも罰して終わらず、その罰を良しとし受け入れた神様はイエス様をよみがえらせたことによって、私たちが再び神様との真の親子関係に戻してくださったのです。私たちがこの愛を、自分のこの罪を認め、あなたの罪の身代わりとして十字架に架かってくださったこのイエス様の救いを受け入れるなら。この取り戻された神様との親子関係、あなた自身を神様の子とされたその関係の中に、そのイエス様のいのちにかけて、あなたに幸い、世では得ることのできない、生きた神様があなたの内に現してくださるのです。その関係の中に私たちはすべての点において幸いを得るのです。いや、この新しい神様と生きるその関係こそ、まさに幸い。その幸いはある一点にとどまらず、健康に至るまであなた自身に対して向けられるのです。

 

私たちはある一点を見てなぜこんな事が?と思うかもしれない。しかし、私たちはこの十字架を覚えましょう。あなたはイエス様のいのちをもって買い戻された神様の子とされたという事を。だから私たちはこの神様に祈り求めようではありませんか。本当の幸いは神様が与えてくださる。上のことばはヨハネの願いですが、しかしそれ以上に神様はあなたが幸いを得ることを願っている…この事をどうか忘れないで歩もうではありませんか。