ー三つ撚りの糸ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」

伝道者の書4912

 

これは、聖書に限らず世の中にも似たようなことわざがありますよね。某戦国武将も3つの矢の話をしていますが。その出どころはどこなんだろうね~と気になるところですが。

 

この二人、三人、というのは主だっては友、もっと言うなら私たちの伴侶であったり、仕事仲間であったり?確かに一人ではどうにもならない場面、時、そうしたときに助けてくれる人がいたらどれだけ助かるだろう…私たちはそんな場面で悲痛な叫びをあげて助けを呼び求めます。

 

まあ最近の世の中は関係が希薄だったり、利益中心だったりで、自分のことをなげうってでも助けるなんてケースはまれかもしれません。もしくは孤独、絶望、悲しみの中に落ち込むことがあるかもしれない。様々な問題や、もしくは何かの問題で孤立して。いや、誰かがいても、一緒に起き上がる力、それを打ち砕くことができずに「起き上がることができない」。

 

でもどうか忘れてはいけないのは、このもう一人の人に、あなたのもう一人の人がいる事を。そう、イエス様です。イエス様が絶望、孤独、悲しみ、いやどうにもならない罪、死にゆくしかない私たちのところに人となってきて下さるのです。イエス様は社会的に当時見捨てられているような人のところに、当時感染症的な理由もあって誰からも触ってもらえないような人のところにも足を運び触り癒された。何より罪という最大の人間の課題、神様から断絶され、真のいのちを失っている、勝手に神様から離れていった彼らのために来られ、イエス様を裏切った弟子たち、十字架にかけた人たちを目の前にしても、「父よ彼らをお赦し下さい、彼らは自分では何をしているのかわからないのです」と赦しを懇願し、彼ら、いや私たちの罪を全部身代わりに背負われ、死なれ、なお復活させられたことで、私たちの罪の問題、死の問題全てを打ち砕かれたのです。イエス様はご自分のいのちをなげうってでもあなたのところに来られたのです。神の子であるのに人となってでも、あなたのためにいのちを投げ出された。

 

このイエス様が今日もあなたのためにとりなし祈られ、またあなたと共に歩まれる。あなたは決して一人ではない、神様の子とされたあなたはイエス様が共におられるのです。主が降っていけないところはない。あなたのために陰府に降っていくことさえできるのだから。

 

イエス様は聖書の中だけに存在する登場人物ではない、今も生きておられる。あなたを罪の中から、絶望、悲しみの中から起き上がらせたいと思っておられる。あなたがイエス様を救い主として受け入れる時、あなたの内に住まわれ、あなたとともに、歩まれる。あの聖書の中でご自身を現されたようにあなたの内にも。その時、あなたが一人だと思っていた、古い私たちが新しくされ、神様の子としてのあなたの生涯が始まる。切れてしまうかもしれない3つの撚り糸どころではない、十字架で結ばれたあなたとイエス様の糸は切れることはない…今日、私たちは主を呼び求めよう。そして今日、主と共に歩み始めよう。