「あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。」
箴言3章9‐10節
財産を使うのに満たされる?
不思議に思う方もいるでしょうね。まあ、一般社会でも、確かに何か社会事業のために資金を投じることで企業評価を上げる、なんて戦略もありますが、その動機が問われそうですね。
私の知っている企業が、障がい者も受け入れましょう、と社会奉仕的なことを歌って受け入れたのですが、実際はあれこれケチをつけるは道具のように扱うわ。もし、その人の持つ特別な視点(実際にあったのですが)を見て、ああもっとここをこうすればいいじゃないか、と気づいていたら、あの企業はもっと豊かになっていたかもしれませんが。
話が本筋から外れましたが、ここで言っている財産って何でしょうね。実際、このことばを欠いたソロモン王(歴史上でも有名ですね)は非常に知恵に、財産に富んでいました。これを正しく用いている間は、神様から頂いたものだから当然神様のために、また民のために、と用いている間は彼は豊、国も豊かでした。ところが自分の栄光のために用い始めたときに、民は苦しめられるは、政治的には腐敗、彼のこの時の失敗がもとで、彼の財産もやがて散っていくのでした。
そう、大事なのは、私たちの持つ財産、者、また周りの友、状況はすべて神さまから与えられたものなんです。それをどう用いるか、これは重要です。
でも実は神様はお金や知恵と言ったものとは比べ物にならない財産を私たちに下さっています。それは、永遠のいのちです。苦労して築き上げた、減るようなものではない。これは、誰でも頂くことができるんです。それに神様からの財産ですからその価値は、そこいらにあるような価値の変動するものではない、変わる事のない豊かな財産です。
私たちが本来苦労して気づきあげるべき財産を、私たちが神様から離れ、差から愛、自分勝手に歩み…そうした罪の刑罰・死を自分たちが受けなければならないところを、イエス様が背負われ身代わりに死なれ、またよみがえらせていただいたことによって、私たちはこのイエス様の救いを信じ受け入れる時、ただでこれを受け取ることができる、神様の子とされる特権をいただくのです。その神様が私たちの真の神様となり、私たちを養育し、導かれる、その中において、神様に、この御言葉に従い歩むとき、そこは満ち溢れる、その倉は富に満たされるのです。神様のために捧げられたその時間はその場所は、この世のものでは埋めることのできない神様の何かで満たされるのです。何かとは何か?それは私は神様ではないのでわかりませんが、あなたのために必要なベストでしょうね。
だから、私たちはこの神様との関係を日々豊かに持ちたいものです。余った時間ではなく、困った時にではなく、日々神様を呼び求め、その愛に、みことばに、聖霊様に満たされ歩みたいものです。その時、あなたの倉が自分のものではなく、神様の恵みでいっぱいとなるように…だって、私たちは自分たちの与えられている蔵から出して歩むわけですから、その中に何が入っているか、これは重要。
今日、私たちはもう一度主の前に帰りましょう。まだこの財産・永遠のいのちをいただいていない人は主の前に悔い改め、これをいただきましょう。そして日々あなたの倉を神様の与えてくださるものでいっぱいにし、またこれを誰かに分かち合うものでありたいものです。