「まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。…わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。」
エゼキエル書34章11‐12,16節
神様は「父なる神様」です。いや正確に言うなら、御子イエス様を通して、父なる神様と呼ばせていただける、と言った方がいいかな?ですから神様はその親子関係故に私たちを養われます。
昔イスラエルの民は神様に散々逆らい、捕囚にあいました。もう神様から見捨てられた、としか思えない絶望のどん底にいました。でもそれは人の目から見た視点でした。神様は決して彼らを見捨てることができなかった。見捨てることもできるけど見捨てられなかった。愛であり義である神様はどうにも見捨てることができなかったのです。それでエゼキエルさんという神様のことばを預かり、民に語る預言者を通して彼らに上のことばを約束されたのでした。神様を見失い絶望、暗闇、先も見えない雲の中を歩む彼らを探しに来る、と。そして世話をする、と。
その具体的な形として神様はご自分の御子イエス様を人として送り出され、彼らの内に住まわれました。差別や、社会的絶望・当時はローマ帝国の支配下にありましたが、その中に傷ついた者たちを包み、病をいやし力づけた。そして、私たちを支配する罪、死、あらゆる絶望を打ち破るため、すべてを背負い十字架に架かられ死なれ、なお3日目に復活されたことによってこれらに勝利されたのでした。そしてイエス様のこの救いを受け取るなら、悔い改め神様に立ち返るなら、この完全なる神様の養い、神様の家族へと引き入れられたのです。それは当時のイスラエルの民に問わず、あなたへの約束ともなったのです。
神様は黙って見ておられるだけの神様ではない。いや、神様は私たちの状況を知っておられ、見捨てることはできない。「失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づけ、肥えたものと強いものを滅ぼし、正しいさばきをもって彼らを養」いたいのです。神様は救って終わりじゃない、あなたを神様のイエス様の十字架による救いによって神様の家族へ引き戻し、真の親子関係の中に迎え入れたいと願っているのです。「雲と暗やみの日に散らされたすべての所から」あなたを「救い出して、世話を」したいと御子イエス様のいのちを十字架にかけられた。あなたの罪を赦し、迎え入れるため。
あなたは神様のこの思い、愛を知っているだろうか?
神様は今日何もしないじゃないか、と思っていないだろうか?
神様はあなたを今日も探し、あなたに語られ、力づけ、なおあなたの内にご自身を現したいと願っています。今日私たちは御子イエス様の名によって父なる神様に大胆に近づき、この深い愛の関係の中生きようではありませんか。主は黙っている方ではない、動かない方ではない、私たちが気付かないだけで今日もあなたに語り、あなたのためにとりなし祈り、あなたのために働かれている…主の声を上げ祈り、また主の声を聴こう…主は聞かれ、また語られる…