東日本大震災から三年という月日が流れました。
被災した人々にとって、それぞれの三年の重みがあると
思います。
そして、いつまでも引きずってはいられないけれど、
決して忘れ去ってはいけないことだと、皆が心に刻んでいると
思います。
震災の二日前。
3月9日のこと。
結構大きな地震がありました。
私は宮城県沖地震も体験しているので、とうとう次の
宮城県沖地震がきたのかと思いました。
強い揺れの後、空が暗くなり、雪が降ってきました。
カラスが鳴き、何とも言えない不気味でおかしな気分でした。
しかし、翌日の3月10日は、
それほど不安な一日ではありませんでした。
仕事が忙しくて、ずっと後回しにしていた髪の毛が気になり、
美容室に予約を入れていました。
いつもの美容室に、夕方娘と一緒に訪れました。
それぞれにすっきりとして、とても気分が良い状態でした。
帰りは、夫と待ち合わせをしていたのですが、
何と夫はビュッフェスタイルのディナーのお店に先に入って
いたようで、
後から私と娘が合流し、お腹いっぱい楽しい食事をしました。
別に誕生日でも記念日でもないのに、たまたま美容室に
行って、たまたま夫が食べたかったという理由で…。
明日食べる食パンが無いかも…と
その後でスーパーに寄り、食パンや牛乳などを買って帰宅。
その日は木曜日なので、まだ色々と食料品を買い込むわけ
ではなく、週末の土曜日にでも行く予定でした。
そして、何も胸騒ぎがしないで迎えた3月11日。
週末の金曜日ということもあり、夫が午後から会議だという
こともあり、いつも通りにオフィスに行って、コンビニで
お昼を買って…。
実は、確定申告の準備のために、その日は残業の予定でした。
夕方に軽く食べても良いかなと、コンビニではお弁当以外に
少しのパンとおにぎりを数個買いました。
夫はコンビニのお弁当をさっさと食べて、慌ただしく会議に
出掛けて行きました。
私は前日のビュッフェでたくさん食べたこともあり、あまり食欲
が無いな~とお昼を後回しにしていました。
気になっていたパソコンでの作業を終え、トイレを済ませ、
銀行に送金の用事があったので、荷物を用意していました。
銀行までは徒歩5分ほど。
3時までには間に合うわね~と思いながら…。
そこまでは、いつもの光景でした。
14時46分。
ぐらっときた瞬間、あれっ今日もまた地震なの?
そんな感じでした。
しかし強い揺れが容赦なくやってきて、これは大変な事態だと
思いました。
少し前にニュージーランドの地震がありましたから、
生き埋めになりたくない!と背筋が凍りました。
慌てて、建物の外に出ました。
携帯だけを手にしていました。
周りの建物から、大勢の人が外に出ていました。
一瞬にして停電になりましたが、その時点では、30分以内に
いや15分以内にでも停電は復旧するような、甘い考えでした。
銀行に行っていないから…などと考えていたり、その日の残業の
心配とかをしていました。
建物が崩壊する恐れが無いので、オフィスに戻りました。
オフィスに置いてあったテレビも観れるラジカセで情報を得よう
としましたが、乾電池が切れていました。
すぐに近くのコンビニに向かいましたが、乾電池は品切れで
した。
何故か、そこで食料品を少しでも買おうなどとはひらめかず、
乾電池も無かったしと、オフィスに戻り、家族と連絡をと思いました
が、停電したため、オフィスの固定電話は使えません。
携帯は当然の如く繋がらないのです。
中心部のビルは大きく揺れてはいましたが、崩壊とか火災とか
身の危険が迫ることが無かった分、電気の回復さえすれば、
またそれぞれの仕事に戻るだろう…というムードだったと思い
ます。
私は、最低限の持ち物をバッグに入れて、外を歩き、公衆電話を
探しました。
コンビニには公衆電話が無く、近くの病院や建物には立ち入れません。
右往左往している時に、夫からメールが入りました。
14時59分
メールのタイトルは
[大丈夫]
本文が
「どうだ」
たったそれだけのメールでしたが、空白の13分がとても長く感じた
としか言えませんでした。
自分は大丈夫だけど、私は大丈夫かの確認のつもりだったのかと
想像できました。
15時04分
娘からは、災害伝言板で無事ということが分かりました。
たまたま家に一人でいた娘でしたので、心配でたまりません
でしたが、地震発生から15分以内に安否が分かり、そこで私は
少しだけ冷静な自分を取り戻しました。
やがて徒歩で夫がオフィスに戻ってきました。
私は高齢の夫の母と自分の母に連絡を取るため、再び公衆電話
を探しました。
ようやく電話ボックスを発見し、少し並んでやっとボックス内へ。
双方の実家の固定電話は幸いその時点では繋がって、安否を
確認することができました。
たぶん15時20分くらいだったと思います。
取り合えずの連絡が付き、安堵してオフィスに戻った私に、
ワンセグなどで情報を得た若い女性から、津波の話を聞きました。
この地震でそんな津波が?
死者が多数?
信じられないと思いました。
混乱し、外を見ると、一斉に帰り出す車の渋滞が続いていました。
今帰ってもどうしようもないし、取り合えず様子を見て…と思って
いると、
白い雪が降ってきました。
暖房はとっくに止まっているし、室内でも寒くて仕方ありません。
知人などがオフィスの前にいたので、中に入れて、ひざ掛けを
貸して、普段から置いてあったカイロを分けました。
近くのファーストフード店で、無料で食糧が提供されていたようで
私達もそれを分けて頂きました。
夫は建物の周りを確認していたりして、それまでずっと別行動
でしたが、やがて日が暮れてきて、もう停電の回復の見込みが
無いから、今日は早じまいするしかないなという話をしていました。
車で通勤している私達です。
夫が立体駐車場に向かいましたが、停電のため車を外に出せま
せんでした。
夫は、JRや地下鉄は動いていないのか確かめたらどうかと、
私に聞いてきました。
その時点で、交通網のマヒもよく理解していませんでした。
やっとそこで初めて帰宅難民状態になったと自覚したのです。
夫が自宅までの距離を計算し、歩いて帰ろうと決断。
徒歩なので、荷物を最低限にしようと、お互いに確認しました。
すっかりオフィスは真っ暗になり、あったはずの懐中電灯も
揺れでどこかに転がったのか見つからず、不安でしたが、
何とか帰るしかない、と。
18時30分過ぎ。
多少の灯りを頼りに、次々と歩いている人の波に乗り、自分達も
歩き出しました。
途中で再度実家に電話したりしていたので、帰宅したのは、
21時近くでした。
携帯電話の灯りだけでは、足元もよく見えませんでした。
夫が進む先に気付かず、別の人と正面からぶつかって転んだり
途中で、ガラスが割れて散乱した歩道が続いたり、危険もありました。
必死で歩きました。
お昼に買ったコンビニの食料が、その日の我が家の夕食でした。
レンジで温めることもできない冷たい食事でした。
しかし、後から様々な報道で、その日から満足に食べることが
できなかった人達が大勢いたことを知りました。
冷たくてもなんでも、食事ができたことは有り難かったです。
前日は、お腹いっぱいビッュフェで食事をし、暖かい家でのんびり
とした夜を過ごしたのに、翌日は色々な荷物が散らかった家に
徒歩で帰宅し、何とかおにぎりなどを食べたあの時。
その差があまりにも大きくて強烈でした。
しかしながら、ご家族や大切な人を亡くされた方々からしたら、
前日までの平和な時間を、たった一日で突き落とされた哀しみは
例えようのないことだと思います。
私の体験は、もっともっと大変な思いをした人に比べたら、
大したことではないと言われるかもしれませんが、
今、都心で暮らしている人達が地震に遭遇したら、きっと私と
同じような体験になるのではないかと思います。
普段便利な生活をしている分、混乱の事態になった時に、どう
行動するか、沿岸部に住んでいないし、津波とか関係無いし、
と関心が薄い人にも、気付いて欲しいです。
もう震災から三年も経ったし…と忘れてもらいたくはありません。
あの日から月日は流れましたが、どこか心にいつも何かが
引っ掛かっています。
きっと、まだ行方不明者がいることや、身元確認ができない人
がたくさんいることなどが頭にあるからだと思います。
色々な意味で、心の整理がつかない人が大勢いることは、
とても辛いですよね。
長い文面になりましたが、この辺で締めくくります。
震災を体験したことが、これからの人生に活かせるように、
これからも色々と考えていきたいなと思う
3月11日でした。
最後まで読んで下さり、ありがとうございます☆

