(物語)
ピエールはフランス士官に手を取られて部屋に入った時、黙っている事を潔しとせず、また自分がフランス人でない事を士官に説明して、部屋を出て行こうとしました。
ところが、フランス士官はそれに耳を貸そうともしませんでした、彼は親切で、それに生命を救われた事に心底感謝していたので、ピエールはどうしても断りきれずに、2人は広間に一緒に腰を下ろしました。
自分はフランス人では無いというピエールの言明に対して、士官は、どうしてこのような光栄ある呼称を断る事が出来るのか、理解できないらしく、肩をすくめて、どうしてもロシア人で通したいのなら、それも構わないが、しかし自分としてはやはり、生命を救われた感謝の気持ちで貴方とは永久に結び付けられている、と言いました。
もし、この男が少しでも他人の気持ちを理解する能力があり、ピエールの胸中を察知したならば、ピエールは恐らく彼の側から立ち去っていたでしょう。。
ところが、自分以外のものは何も見えぬ、この男の明るい無邪気さに、ピエールは負けたのでした。
「フランス人でなければ、名を秘したロシアの公爵としておきましょう」と、汚れてはいるが生地の良いピエールのシャツと、手の指輪を見て、フランス士官は言いました。
「貴方は生命の恩人ですから、私は貴方に友情を捧げます。フランス人は絶対に屈辱を忘れないし、好意も忘れません。私は貴方に友情を捧げます。これ以上何も申しません。」
この士官の声にも、顔の表情にも、動作にも、有り余る善良さと気品(フランス的な意味だが)とがこもっていたので、ピエールは、相手の微笑に思わず微笑を返しながら、差し出された手を握りしめました。
「第13軽騎兵連隊のランバール大尉です。9月7日(※ボロジノの会戦、ユリウス暦では8月26日)の戦闘でレジオン・ドヌール勲章を拝受しております、と満足の微笑を浮かべながら、彼は名乗りました。
「今頃は、あの狂人の弾丸を身体に受けて教護所に居るところでしたのに、こうして楽しいお話をするひとときを、どなたと持つ光栄に浴して居るのか、差し支えなかったらお明かしいただけないでしょうか❓」
ピエールは、素性を明かす訳には行かぬ、と答えました。
そして、それを明かせぬ理由を説明しかけると、フランス士官は急いでそれを遮りました。
「わかりました。結構です。」と、彼は言いました。
「私にはわかりますよ、貴方は士官。おそらく佐官級の士官でしょう。。でも、それは私の関知した事ではありません。私は貴方に生命を救われました。私はそれだけで十分です。私は貴方の友です、貴方は貴族ですね。」と、彼は問いかけるようなニュアンスで付け加えました、ピエールは頭を下げました。
「お名前をお教えいただけませんか❓ムッシュー・ピエールとおっしゃいましたね❓結構です、私の知りたかったのはそれだけです。」
羊の焼肉と、卵焼きと、サモワールと、ウオッカと、フランス兵達がロシアの酒蔵から分捕って来たワインが運ばれると、ランバールはピエールに食事を共にする事を勧めて、自分は直ぐにいかにも腹を空かした健康な人のように、がつがつと勢いよく食べ始めました。
ピエールは腹が空いていたので、喜んで食事を共にしました。
癒された空腹とぶどう酒は、ますます大尉を活気づけ、彼は食事の間ひも切らずに喋り続けました。
「親愛なムッシュー・ピエール。あの気違いの凶弾から救って下さった事に対して、私は貴方に感謝のろうそくを立てねばなりませんな。私はね、今、身体の中に入っている弾丸だけでたくさんですよ。1発はここに。」と、彼は脇腹を指しました。
「ワグラム付近で受け、もう1発はスモーレンスクですよ。」と、彼は頬の傷痕を示しました。
「また、この足ですが、ご覧の通り動きたがらんのですが、これは7日のモスクワ近郊の大会戦のおみやげですよ、まったく❗️あれは凄絶でしたな❗️お目に掛けたかったですよ。まさに猛火の洪水でした。貴方がたには全くえらい目に遭わされましたよ。あれは貴方がたが誇りにして良い戦いでしたな。全く、もう1度初めからすっかりやり直したい思いですな、あの会戦を見なかった者は、気の毒ですな。」
「私は居たんですよ。」と、ピエールは言いました。
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(解説)
ここでは、フランス士官ランバールの明るくて気さくで善良な人柄が示されています。
ランバールは、自分以外の事は何も見えない男でしたが、決して悪気がある訳ではなく、むしろ彼のそんな無邪気さがピエールの心を開かせたようです。
敵国フランス軍といえど、その個々の人間は、やっぱり同じ人間としての喜怒哀楽があるのだ、と彼を見てピエールは感じたと思います。
そして、善良さも。。
ランバールは戦勝国として上から目線でピエールに語りかけ続けますが、礼儀正しく、ピエールを大事に扱います。
そしてね、不思議な事に食事を共にする、という行為がなんとなく二人の間に家族的な和やかさを齎している様に思います。
ランバールはフェアな精神を有する士官らしく、ボロジノの会戦に於けるロシア軍の勇敢さ・優れた点をピエールに話して聞かせます。
ピエールは、「実は自分もそこに居たのです。」とランバールに言うのですね。













