(物語)
「さあ、終わったぞ。」と、最後の書類に署名をしながら、クトゥーゾフ は言いました、そして大儀そうに立ち上がると、晴れやかな顔をして扉口の方へ歩き出しました。
司祭の妻は、パッと顔を火照らせて急いで皿を掴みました。
さっきから待ち構えていたくせに、それでも彼女はここぞという瞬間に皿を差し出す事が出来ませんでした。
彼女は深々と頭を下げて、それをクトゥーゾフ に捧げました。
クトゥーゾフ の目は細められました、彼はにやりと笑うと、片手で主婦の顎をしゃくって言いました。
「ほう、これはお美しい❗️有り難う奥さん❗️」と、彼はズボンのポケットから何枚かの金貨をつまみ出して盆の上に乗せました。
「どうかな、楽しくお暮らしかな❓」と、クトゥーゾフ は用意された部屋の方へ向かいながら言いました。
司祭の妻は、えくぼを見せて微笑しながら、彼に続いて奥の間へ入って行きました。
副官は玄関の階段の所で待っていたアンドレイ公爵の所へ出て来て、朝食に誘いました。
30分程すると、アンドレイ公爵はクトゥーゾフ の部屋に呼ばれました。
クトゥーゾフ は軍服の襟をはだけたまま、ソファに深く腰掛けていました。
彼はフランスの小説を手にしていましたが、アンドレイ公爵が入って行くと、ペーパーナイフを挟んで本を閉じました。
アンドレイ公爵が表紙を見ると、それはマダム・ド・ジャンリの『白鳥の騎士』でした。
「さあ、かけたまえ、話そうじゃないか。」と、クトゥーゾフ は言いました。
「実に悲しい事だ。だが、忘れんでくれたまえ、君。わしが君の義父であることをな、もう1人の義父だよ。。」
アンドレイ公爵は、父の死について知っている限りの事と、後退の際に立ち寄って禿山で見た事を、クトゥーゾフ に語りました。
「どこまで。。どこまで落ちてしまったのか❗️」と、アンドレイ公爵の話から、ロシアが置かれた状態をまざまざと思い描いたらしく、クトゥーゾフ は怒りに震える声で言いました。
「時を与えてくれ、時を。」と、彼は険しい顔で付け加えました。
そして明らかに、この胸を真に立たせる話を続けたくないらしく、言いました。
「君を呼んだのは、わしの側に居てもらいたい体よ。」
「閣下のご好意に感謝します。」と、」アンドレイ公爵は答えました。
「でも私は、もう司令部の為にお役に立てないのではないか、と思うのです。」と、彼は苦笑しながら言いました。
クトゥーゾフは怪訝そうに彼を見ました。
「何よりも。。」と、アンドレイ公爵は言葉を次ました。「私は、連隊に慣れてしまって士官達を好いておりますし、部下の将兵も私を好いてくれているようです。連隊を去るに忍びないのです。閣下の下に勤めるのをご辞退致しますのは、決して。。」
聡明そうな、善良そうな、同時にかすかな愚弄するような表情がクトゥーゾフのぶよぶよした顔にさしました、彼はボルコンスキーの言葉をさえぎりました。
「残念だな、君はわしに必要な人間なのだが。だが、君が正しい。我々が人間を必要とするのはここでは無い。意見を述べる者はわんさと居るが、人間は居ない。立派な意見を吐く連中が、君のように連隊に勤めていたら、連隊はこんなザマにならなかっただろうよ。わしはアウステルリッツ以来、君を覚えとる。。覚えとるよ、軍旗を持った姿をな」と、クトゥーゾフは言いました。
この回想を語られると、アンドレイ公爵の顔が嬉しそうに紅潮しました。
クトゥーゾフ は彼の手を握って引き寄せると、彼の接吻を受ける為に頬を差し出しました。
すると、アンドレイ公爵は彼の目に涙が滲んでいるのを見ました。
クトゥーゾフが涙もろい事も、父の死に同情を示そうとして、特に彼に優しく哀惜してくれている事も、アンドレイ公爵は知っていましたが、それでもアウステルリッツの回想を語られた事は、やはり嬉しく胸を快くくすぐられるのでした。。
「立派に自分の道を歩むが良い、わしにはわかっとる、君の道こそーー名誉を重んじる道だ。。ブカレストで君を手放すのは惜しかったが、君を派遣せねばならなかったのだ。」とクトゥーゾフ は言いました。
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(解説)
ここも、アンドレイ公爵とクトゥーゾフ との対話を通じて、クトゥーゾフの戦争観というものを表現している部分では無いかな。。と思っております。
まず、アンドレイ公爵がクトゥーゾフの部屋を訪れた時、彼はフランス小説の『白鳥の騎士』を読んでいます。
これ。。わざわざトルストイがクトゥーゾフに読ませているのですね。しかもフランス小説です。
この『白鳥の騎士』という物語の内容は、日本で言えば『鶴の恩返し』のような話と解釈しております。
『白鳥の騎士』は、いろんなバージョンで題材にされていますが、物語の大筋としては、ある国のお姫様が、お姫様を助けた正体がイマイチわからない男性と恋仲になり、この国を彼と統治したいなら、結婚しても良いが決して自分の素性を問うてはならない、という話です。
結局、お姫様は、側近の人から「そんな素性のわからない男と結婚して子供まで授かって」と嫌味を言われるんですね。
それで、お姫様は約束にもかかわらず「あなたは一体誰なのです❓」と聞いてしまい、結局彼は奥さんであるこのお姫様と子供を置いて去っていった。。という話ですね。
これは、お姫様が、彼はきちんと国を統治し、お互い仲睦まじく暮らしていた、という大事な事実をきちんと認識しないで、彼を信じずに無責任な他人の先入観に揺らいで彼との約束を破った、という話だと解釈します。
要するに『自分自身の目で見て、肌で感じたことだけを信じなさい。』という教訓ではないかと思っております。
(他には、例え夫婦間であっても相手方のプライバシーに立ち入ってはならない、っていうのもあると思います。)
結局、クトゥーゾフは、アンドレイとの話の中でも、『自分の目で戦時中の戦場』というものを見ていなければ、どんな幾何学的な知識や心理的な考察をしても何の役にも立たん、と言っているのだと思います。
自分の肌で感じた事実だけが大事なのであって、その経験で動く事が大事なのだ、と。
そしてね、クトゥーゾフは、涙もろい温かい人間として描かれており、アンドレイ公爵も連隊の部下を本当に可愛がっています。
かつて、アンドレイの戦争に対する考察で、アンドレ自身、戦争において『優しさとか慈悲の心』は無用だ、と言っていたと思いますが、やっぱりトルストイは、生身の人間が戦争に参加せざるを得ない訳ですから、『人間としての彼ら』を描くことによって、戦争をせざるを得ないそれぞれの人間のドラマがあるのだ、と訴えているように思いますね。(トルストイはこれを温かい血が流れるロシア人の気質と捉えているように思います。)
だから、クトゥーゾフは、アンドレイが連隊に属し、実戦に参加している事を高く評価しているのですね。
こういう人間が司令部にも連隊にもたくさん居れば、ロシアの連隊はもっとマシになったろうに。。という事を言っているのだと解釈します。
そして、クトゥーゾフ は、アンドレイ公爵のような人間と一緒に仕事をしたかったのですが、アンドレイは今の連隊に愛着があるのだ、と断ってしまいます。
しかし、クトゥーゾフ はアンドレイの気持ちを理解して優しく送り出すのでした。。
(備考)聖杯王パルチヴァールの息子ローエングリン(白鳥の騎士):ウイキペディアより。
高貴な女性がブラバントという国を統治していたが、彼女は多くの求婚者の申し出を拒んでいた。神が送ってくれる者の到来を望んでいたのだ。そのとき、白鳥の曳く小舟に乗ってローエングリン[3]がアントウェルペン(アントワープ)に上陸し、女王はこの勇士を丁重に迎えた。勇士が「私をここのあるじと望まれるなら、・・・私が誰であるかを決して問うてはなりません」と言うと、女王はそれを守ると誓い、二人は結婚した。そして子供も二人生まれた。しかし、彼女は後に約束を破り彼の素性を問うのですね、ローエングリンは形見に剣一振り、角笛一本、指輪一個を残して聖杯城へと去って行った。
※グリム童話版では、ローエングリンが問題なくすぐれた政治的手腕を発揮し、二人は愛し合っていたにも関わらず、ちょっとした行き違いで、この女性(奥さん)の近くの者が「素性の知れない者」と嫌味を言ったのを気にして。。という理由づけが記載されています。









