戦争と平和 第4巻・第4部(1−2)ナターシャ、アンドレイの生前になぜ愛ある言葉を言えなかったの | 気ままな日常を綴っています。

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いつか静かに消える時まで。。
一人静かに思いのままに生きたい。。

(物語)

ナターシャは絶えず、力に余る恐ろしい疑問を抱いて心の目を注いでいるものが、今にも見え、わかりそうに思われるのでした。

12月の末、黒い絹の衣装を着て、髪を無造作に束ね、痩せて蒼白い顔をしたナターシャが、ソファの隅に座ってドアの隅をじっと見つめていました。

 

彼女は、彼が去って行った所、生(せい)の向こう側を見つめていました。

そして、これまでは一度も考えた事が無かったし、限りなく遠い漠然としたものと思われていた生の向こう側が、今は「(全てが空虚と破壊、あるいは苦悩と屈辱でしかない)生のこちら側よりも、ずっと近い、懐かしい、そして分かり易いものに思われるのでした。

彼女は、彼が居る事が分かっているそちら側を見つめていました。

しかし彼女は、こちら側に居た時のような彼の姿でしか、彼を見る事が出来ませんでしたーー彼女は、ムイチーシチや、トロイツアや、ヤロスラーヴリで見た彼の姿を見ていました。

 

今も彼は、ビロードの外套に包まれて、やつれた蒼い手を頭の下に当てて、ソファの上に横になっていました。

唇が固く結ばれ、目がきらきら光り、蒼白い顔に皺が刻み込まれたり消えたりする。。片足がかろうじてそれとわかる程に小刻みに震えていました。

彼が恐ろしい苦痛と戦っている事が、ナターシャにはわかりました。

『この苦痛かは何かしら❓』と、ナターシャは考えました。

彼は彼女の不安に気づいて、目を上げ、微笑しながら口を開きました。

『1つだけ怖いのは、それは自分が苦悩する人間と永遠に結び付けられてしまう事です』そして、彼は探るような目でじっと彼女を見ました。。

ナターシャはその時も、いつものように深く考えないうちにもう答えていました、彼女はこう言いました。

『こんな事がそんなに長く続く訳ありませんわ。良くなりますとも。。すっかり元気に。。』

 

彼女は、今再び彼を見て、あの時感じた事をそのまま感じていました。

彼女がそう言った時の、彼の悲しげな、厳しいまなざしを思い出しました、そして今、あの厳しいまなざしに込められていた避難と絶望の意味を理解したのでした。

『ああ。。あの時、あの方は自分が永遠に苦しみ続ける事になったらどんなに恐ろしい事か、という意味でおっしゃったんじゃ無かったのだわ。あの方は、あの時はまだ生きたいとお思いになってーー死を恐れてたんだわ。それなのに、あたしはあんな風に乱暴なばかな事を言ってしまって。。そんな事考えていなかったのに。あたしの考えは全然別だったのに。。』

 

『あの時考えていた事を言ったとしたら、こう言っていたはずだわ。。どうかそちらへお行きにならないで。いつまでもこうしてあたしの前に居て下さいませ、その方がどんなに幸せか。。今に比べたら。。今は、何も無い、誰も居ない。ああ、あの方はあたしのこの気持ちをご存知無いままに行ってしまわれたのだわ。。そして今となっては、もう絶対に言い直しが出来ないのだわ』

 

するとまた(彼女の想像❓の中の)彼は、彼女にその同じ言葉(=『1つだけ怖いのは、それは自分が苦悩する人間と永遠に結び付けられてしまう事です』)を言いました。

だが今は、ナターシャは、その想像の中で別の言葉を彼に答えていました、彼女は彼を押さえて言いました。

『あたしは貴方の為に恐ろしいのですわ、あたしの為ではありませんのよ。どうかお忘れにならないで、あたしには貴方がいらっしゃらなければこの世には何も無いし、貴方と共に苦しむ事があたしには最良の幸福ですのよ。』

すると、彼は彼女の手を取って強く握りしめました。

それは死の4日前のあの恐ろしい夜に、彼女の手を握りしめたあの時と同じような強い握り方でした。

そして彼女は、想像の中で、あの時いう事が出来たはずの優しい愛の言葉を彼に語りかけていました。

『貴方を愛しますわ。。愛しますわ。。』力を込めて歯を食いしばりながら、彼女は囁き続けるのでした。

 

彼女の目に涙が滲んで来ました。。途端にハッとした様に彼女は自分に尋ねました。

私は誰にそれを言っているのかしら❓彼は何処に居るのかしら❓そして、彼は今、誰なのかしら❓

彼女はきっと眉根を寄せて、彼が居た場所に目を凝らし始めました。

もう一息で秘密が見えて来そうな気がしました。

 

ところが、今にも秘密が彼女の前に開かれると思われた瞬間に、ドアの把手を乱暴に鳴らす音が鋭く彼女の耳を打ちました。

そして、急ぎ足で、ナターシャの気持ちなど眼中に無い怯えきった小間使いのドゥニャーシャが部屋に入って来ました。

「お父様の所へいらして下さい、大変な事になりました。ピョートル・イリイチ様(=ペーチャ)の事で。。手紙が。。」と、彼女は涙声で一気に言いました。

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(解説)

非常に難しい、アンドレイ公爵の死後のナターシャの悲しみを記載した部分ですね。

ナターシャは、モスクワに旅立つ公爵令嬢マリヤと離れて、一人『アンドレイの死』に向き合います。

彼は、神の国に旅立った、それは全てが空虚と破壊、あるいは苦悩と屈辱でしかない生のこちら側よりもずっと穏やかで愛に満ちた世界への旅立ちだということは、はちゃんと理解しています。

 

しかし、ナターシャは、アンドレイ公爵に伝える事が無かった重大な事がある様に思っているのですね。

アンドレイは未だ臨終が来ない時に、身体の痛みに苦しむ自分を見ているナターシャに『1つだけ怖いのは、それは自分が苦悩する人間と永遠に結び付けられてしまう事です』とナターシャに言います。

ナターシャは、このアンドレイの言葉を、『アンドレイ自身に苦痛が続く事の苦しみ』と簡単に捉えて、「痛みが永遠に続く事はありません、きっと良くなる筈です」と元気づけるのですね。

でも、アンドレイ公爵はその言葉に悲しそうに、厳しい眼差しをナターシャに向けるのですね。

 

ナターシャは、今となっては、自分の言った言葉が『的外れ』だったときちんと認識しています。

あの時、アンドレイ公爵は、ナターシャへの愛着故に生きる事に執着があったのだ、すなわち、彼は死を恐れていたのだ、と認識します。

そうであるならば、なぜ、自分は彼の問いを、『自分の苦しみの継続』と単純に捉えてあの様なばかな答えをしたのか❓

アンドレイ公爵は、『いま、自分の苦しみ(=ナターシャへの愛、執着)から解放してくださるのは貴女だけです』というニュアンスの事を伝えたかったのでは無いか❓と私は想像します。

そうであるならば、ナターシャは、その彼の愛にストレートに答える必要が強く求められていた訳ですね。

ナターシャはその事を認識しながら、なぜ、あの時『貴方を愛しています』と言ってあげられなかったのか。。と思います。

彼女は、想像の中に見えるアンドレイ公爵の面影に、あの時いう事が出来たはずの優しい愛の言葉を彼に語りかけていました。

『貴方を愛しますわ。。愛しますわ。。』力を込めて歯を食いしばりながら、彼女は囁き続けるのでした。

 

ナターシャがそんな想いにふけっている時に、突然小間使いのドゥニャーシャが駆け込んで来ます。

 

(追記)

ナターシャは、アンドレイ公爵に『1つだけ怖いのは、それは自分が苦悩する人間と永遠に結び付けられてしまう事です』と問いかけられた時、やはり、アンドレイ公爵はナターシャの愛の言葉を欲していたのだ、ときちんと認識できていたと思うのですよね。

でも、それを言う事が出来なかったのだと思います。

アンドレイ公爵が戦場に出かけてしまったのは、自分の裏切りのせい、アンドレイ公爵に対して、もう一度。。などと思う事は自分の良心が許さない。

アンドレイ公爵がこのまま神の世界に旅立たれるのならば、なぜ、自分がそれを引き止める言葉を言う事が出来たのか❓

と言う様な思いがどっと頭を駆け巡ったと思うのですよ。

だから、彼女は敢えて在り来たりの「痛みは直ぐに良くなりますよ」と答えてしまった様に思うのですけれどね。

 

そうであっても、やはり愛する人を失った空虚感は計り知れないものだったのでしょう。。

彼女は、あの時なぜアンドレイ公爵に愛の言葉を言わなかったのか。。その様に悔やんでいるんだと思います。

そこにはもう、あれほどアンドレイ公爵に愛される事だけを考えていた未熟なナターシャは居ません。

彼女は、あの時『人を愛する意味』を真に理解していたなら、もっとアンドレイ公爵を安心させてあげられたのに。。と涙を流しているのですね。

ナターシャのこの姿は、当時、戦争で愛する者を失い、結ばれる事が出来なかったたくさんの若い男女の想いを吐露するものでは無いか、と思います。