(物語)
全ての兵士達が、今、冷たい秋の夕闇の野原の中に停止してみて、出発の時に全員を捉えた慌ただしさと、何処かへ急き立てられるような強行軍からの、不快な目覚めのような苦しい気持ちを一様に味あわされていました。
休止してみて、これから何処へ行くのかさっぱりわからない事と、この行軍の前途には多くの苦難が待ち受けているに違いない事を、皆が悟ったようでした。
この休憩地で、捕虜に対する護送兵の態度は、出発の時よりも一層邪険になりました。
この休憩地で初めて捕虜の給食に馬肉が与えられました。
上は士官から下は一兵卒に至るまで、何かにつけて捕虜の1人1人に対する個人的な憎悪のようなものが見られました。
これまでの友好的な関係が、ガラリと一変してしまったのでした。
点呼の際に、モスクワを出る時の混雑に紛れて、腹痛を装った1人のロシア兵が逃亡した事が判明してからは、捕虜に対する憎悪が一層強まったのでした。
ピエールは、護送兵が道から離れすぎた1人のロシア兵を殴り飛ばしたのを見ましたし、彼の友人だった大尉が、ロシア兵を逃亡させた事で下士官を怒鳴りつけ、軍法会議に回してやると脅しつけているのを聞きました。
兵士は病気で歩く事が出来なかったのだ、という下士官の弁明に対して、士官は、落伍者は射殺せよと命じられたはずだ、と言いました。
ピエールは、処刑場で彼を押しつぶしたあの宿命的な力が、捕虜の間は気付かずに過ぎていたけれど、今、再び彼の存在を捉えたのを感じました。。彼は恐ろしくなりました。
しかし、この宿命的な力が彼を押しつぶそうとして、力を加えて来れば来る程、その支配を受けぬ生命力が、彼の心の中に強まり、大きくなって行くのを感じていました。
ピエールは、ライ麦のパンと馬肉の夜食を取りながら、仲間達と雑談を始めました。
ピエールも、仲間達の誰も、モスクワで見た事や、フランス兵達の態度の乱暴な事や、捕虜達に申し渡された射殺命令の事などは、一切口に出しませんでした。
誰もが、まるで悪化して行く状態に反抗するように、いつになく活気に溢れ、朗らかでした。
個人的な思い出や、行軍の途中で見た滑稽な場面が語られ、現状についての話が一同の関心を捉えていました。
太陽はとうに沈んでいました。
明るい星が宵空のあちこちに灯り出しました、現れようとする満月の、火事のように真っ赤な空焼けが空の果てに流れ渡りました、そして灰色がかった靄の中に、びっくりする程の大きな赤い球がゆっくりと揺れ昇って来て明るくなりました。
夕暮れはもう終わっていましたが、夜はまだ始まっていませんでした。
ピエールは新しい仲間達の所から腰を上げて、藪の中を通り、捕虜の兵士達が居ると教えられた道の向こうへ歩いて行きました、彼は兵士達と少し話してみたかったのでした。
しかし、路上で、フランスの歩哨が彼を制止し、戻るように命じました。
ピエールは引き返しましたが、仲間達の焚き火の方ではなく、誰も居ない、馬を解かれた荷馬車の方へ歩いて行きました。
彼は荷馬車の車輪の側の冷たい地面に腰を下ろすと、両膝を抱え、頭を垂れてじっと長い事考え込んでいました。
1時間以上過ぎました。。誰も邪魔する者は居ませんでした。
ふいに彼は、持ち前の明るい太い声で笑い出しました。
その笑い声があまりにも大きかったので、そちこちから人々のびっくりした目が、どうやら1人で笑っているらしい異様な笑いの方を振り向きました。
「はっはっは❗️」と、ピエールは笑いました、そして独り言を言いました。
『兵士が俺を通さなかった、俺を掴んで、俺を閉じ込めおった。俺を捕虜にしているのだ。俺の誰を❓俺の俺をか❓俺の不滅の魂をだ❗️はっはっは❗️』彼は目に涙をにじませて笑い続けました。
誰か1人が腰を上げて、この異様な大男が1人で何を笑っているのか見に来ました。
ピエールは笑いを止めずに、立ち上がると、この物好きな男から少し離れて辺りを見回しました。
先程まで焚火のはぜる音や大勢の話し声で騒然としていた、果てしなく広がる露営が、今はひっそりしていました。
点々と散らばる焚火の赤い火が薄れて消えようとしていました。
明るい夜空に満月が高く掛かっていました。
露営地域の外のさっきは見えなかった森や野原が、今は遠くに見えていました、そして、その森や野原のさらに向こうに、明るく揺らめきながら呼び招くような果てしれぬ遠方が見えました。
ピエールは夜空を見上げ、きらきらと戯れながら飛び去って行く星屑の極まる果てにじっと目を凝らしました。
『これが皆俺のものなのだ。これが皆俺の中に在るのだ、これが皆俺なのだ❗️』と、ピエールは考えました。
『そしてこの全てを、奴らは捕らえて、板張りのバラックに閉じ込めたのだ❗️』彼は可笑しそうに笑いました。
(※ここでは、フランス兵達は、この俺をバラックに閉じ込めようとしたが、果たして俺の魂を閉じ込めることが出来たのか❓いや、そうじゃないだろう。。というピエールの強い疑問を表現していると解釈します。)
そして寝ようと思って仲間達の方へ歩き出しました。
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(解説)
ようやく捕虜達は日も暮れてから休憩に入り、焚火を燃やし、わずかな食料にありつきます。
強行で、ロシア人の捕虜の1人が仮病❓を使って脱走したと、フランス兵たちはなお一層捕虜達に邪険に当たります。
そして、動けなくなった捕虜は、その場で射殺されると命令されている事を聞きます。
ピエールは、処刑場で彼を押しつぶしたあの宿命的な力が、捕虜の間は気付かずに過ぎていたけれど、今、再び彼の存在を捉えるのを感じます。
しかし、この宿命的な力が彼を押しつぶそうとして、力を加えて来れば来る程、その支配を受けぬ生命力が、彼の心の中に強まり、大きくなって行くのを感じるのでした。
ここでは、上流社会にどっぷり浸かっていて一体自分の価値はなんなのだ❓と彷徨っていたピエールは、実は心が強い人間である事が表現されていると思います。
この人は、自分が大事に守らねばならない『自分の誇り』をきちんと持っていて、決してそれは流されてはいけない。。と思うのですね。
ピエールは、仲間達と雑談をします。
仲間達は、もうこうなった以上、この先に『死』が待ち受けている事を覚悟をしているのですね。
だから、敢えて、先に持ち受けているものを見ようとはせずに、関係ない明るい話をし合うのですね。
この静かな覚悟が、フランス兵達の罵倒と対照的に表現されていて、一層強いものを感じさせます。
ピエールは他の捕虜の兵士たちと話をしたいな。。と思って移動しようとしますが歩哨に制止されます。
仕方がないので、誰もいない荷馬車の陰に座り込んでじっと星を眺めるのですね。
ピエールは、きらめく星屑の極まる果てを見ながら、ふと考えるのでした。
これが人間の魂に見えたのでしょうか。。どんな人間でも他人の魂まで奪えるものじゃないのだ。。と彼は思ったのだと解釈します。
ピエールの、この不屈の言葉を通じてトルストイの強い反戦思想・人権思想が表現されている部分だと思いました。