(物語)
ハモーブエキの横町を行く間は、捕虜と護送兵だけで、護送兵達の荷物を積んだ荷馬車や大型幌馬車がその後に続いていただけでしたが、食糧の倉庫の並んでいる辺りに出ると、彼らは所々に個人の荷馬車の混じった砲兵隊の輜重の密集した巨大な流れの中に、巻き込まれてしまいました。
橋の手前で一行は立ち止まり、前方を行く馬車の列が渡り切るのを待っていました。
捕虜達が橋にかかると、展望が開け、後方にも前方にも果てしなく続く荷馬車や輜重の列が見えました。
右方の、カルーガ街道がネスクーチヌイ公園を巻いて、遥かに遠くに消えている辺りに、軍と輜重の列が果てしなく延々と伸びていました。
それは後発したボガルネ(※イタリア親王、モンテベルヒ公、ナポレオンの継子。)の軍団でした、その後方に、河岸通りにカーメンスキイ橋上に、ネイの軍団と輜重が続いていました。
捕虜の一行が属していたダヴーの軍団は、クルムスキイ・ブロード通りを進み、一部はすでにカルーガ街道に入っていました。
クルムスキイ・ブロードで、捕虜達は数歩進んでは立ち止まり、また進むという状態で、四方八方から馬車や人の流れがますます膨れて道を塞ぐばかりでした。
橋からカルーガ街道までの数百歩を進む為に、1時間以上もかかり、モスクワ河対岸地区の通りがカルーガ街道に交わる広場に辿り着くと、捕虜達はひと塊りに押し付けられて、この十字路の広場に何時間も立たされていました。
周り中から、絶え間ない車輪の轟きと無数の足音が聞こえ、止む事無いいらいらした叫び声や、罵り散らす声が聞こえていました。
ピエールは、焼け落ちた家の壁に押し付けられたまま、想像の中で太鼓の轟きと溶け合っているこの騒音を聞いていました。
何人かの捕虜の士官達が、もっと良く見ようとして、ピエールの側の焦げた壁の上によじ登りました。
「人の海だぜ❗️どれだけ居るんだ❗️どうだ、大砲の上にまで積みやがって❗️見ろ❗️毛皮だぞ。」と、彼らは言い合いました。
「へえ。。強盗どもめ、よくもこれほど。。や、やっ、あの後ろのあの馬車を見ろ。。ありゃ聖像じゃ無いか、そうだよ❗️あんな事をしやがるのはドイツ人どもに決まっている。おや、ロシアの百姓達も居るぞ、呆れた犬畜生め❗️見ろ、あんなに背負い込んでよたよたしてやがる❗️。。あそこじゃケンカだぜ❗️」
「それ、横面をぶん殴れ、一発食らわせろ❗️これじゃ晩になっても動けそうも無いぜ。見ろ、見たまえ。。あれは確か。。ナポレオンだよ。うん、素晴らしい馬だ❗️王冠章に頭文字が付いているぞ。あれは組み立て式の家だ。そらまた喧嘩だ。。赤ん坊を抱いたあの女、いい女だぜ。まあ、心配ねえさ、お前さんなら通して貰えるって。。」
又しても全体の好奇心の波が、ハモーヴニキの寺院の時のように、捕虜達を道の方へ押し出しました。
ピエールは背が高い為に、皆の頭越しに捕虜達の好奇心を惹きつけたものを見る事が出来ました。
弾薬庫の間に挟まれた3台の箱馬車に、派手な衣装を着飾り厚化粧をした女達が、窮屈そうに座って、ぴいぴい声で何やら叫んでいました。
不思議な力の現れを意識したあの瞬間から、ピエールには、慰みにススを塗りつけられた死体も、何処かへ急ぐこの女達も、モスクワの焼け跡も、どんな事も異様とも恐ろしいとも思われませんでした。
今、ピエールが見ている何物も、ほとんど何の印象も彼に与えませんでした。
さながら彼の心が、苦しい闘いに備えて、己を弱めるかも知れぬ印象を受ける事を拒んでいるかのようでした。
女達の馬車は通り過ぎました。。その後にまた荷馬車、兵士達、大型幌馬車、兵士達、箱馬車、兵士達。。と果てしない流れが続いていました。
ピエールは、人々を1人1人の人間として見ずに、ただその流れを見ていました。
これらの全ての人や馬が、何か目に見えぬ力で押し流されて行くかのようでした。
彼らは皆、早く通り抜けたいと言う誰もが同じ思いで方々の通りから流れ込み、同じような人々とぶつかり合って、いらいらして、喧嘩を始め、眉を吊り上げ、同じ様な罵言を投げ合い、そしてどの顔にも、今朝の太鼓の音と同時に伍長の顔に現れてピエールを驚かせた、あの冷酷な表情がありました。
もう日暮れ近くなってから、護送隊長が部隊を集め、怒鳴ったり、言い争ったりしながら、荷馬車の列の中へ割り込んで行きました。
そして捕虜達は、周りを取り巻かれながら、カルーガ街道へ出て行きました。
一行は休止さずに強行軍を行い、太陽が沈みかけてからやっと停止しました。
荷馬車の列が次々と近づいて来て、兵士達は野営の支度を始めました。
誰もが不満で、腹を立てている様でした、あちこちで罵言や、怒鳴り声や、喧嘩の音が聞こえていました。
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(解説)
フランス兵達の移動に伴って捕虜達も行軍するその時の様子の描写です。
道は大変な混雑で、捕虜達はどこへ行く宛も知らされず、人や荷馬車や輜重車などごった返す中、カルーガ街道を数百歩進むのに1時間も掛かったり、何時間も待たされたりしながら歩きます。
イラついた人々の叫び声や罵り合う声があちこちで響いています。
ピエールは、焼け落ちた家の壁に押し付けられたまま、想像の中で太鼓の轟きと溶け合っているこの騒音を聞いていました。
何人かの捕虜の士官達が、もっと良く見ようとして、ピエールの側の焦げた壁の上によじ登り、フランス兵達の略奪品に、通りで行われている喧嘩に、通りかかる女達へのヤジを飛ばしています。
この喧騒を、ピエールは他人事のように眺めています。
今、自分の目の前に映っている争いや罵声や不満の声に耳を傾けることから自分の心を守っているのですね。
ピエールは、人々を1人1人の人間として見ずに、ただその流れを見ていました。
これらの全ての人や馬が、何か目に見えぬ力で押し流されて行くかのようでした。
彼らは皆、早く通り抜けたいと言う誰もが同じ思いで方々の通りから流れ込み、同じような人々とぶつかり合って、いらいらして、喧嘩を始め、眉を吊り上げ、同じ様な罵言を投げ合い、そしてどの顔にも、今朝の太鼓の音と同時に伍長の顔に現れてピエールを驚かせた、あの冷酷な表情があったのですね。
追い詰められた人々が、自己の権利を主張して自分の身を守るのに必死な状況。。他人を思いやる余裕を持てばたちまち自分の命さえ危うくなる状況に置かれた人々の反応。。
これはこの人達個人個人のの本質なのか❓
いや。。違う。。恐らく、何か巨大な目に見えぬ力が彼らの本質に覆いかぶさってそれを歪めているのだ、そしてそれに支配される弱い人間達。。自分はそうあってはならない。。自分を守るのだ、『自分自身の本質』は自分が守らなければならない。。
ピエールはきっとこのように考えていたのでしょう。(下線部:個人的な考察)
そして太陽が沈みかけて、ようやく兵士や捕虜達の強行軍は停止し、野営の準備を始めるのでした。