(物語)
しかし、ピエールは、少しの裏の意味も無く、この言葉の正しさを認めました。
苦悩が無い事、要求が満たされる事、そしてその結果、職業を、つまり生活方法を自由に選べる事、これが今のピエールには、人間の疑いも無い最高の幸福に思われました。
ここで今ようやく、生まれて初めてピエールは、食べたい時の食物の、飲みたい時の飲み物の、眠りたい時の睡眠の、寒い時の暖かさの、話したり人の声を聞きたくなった時の、人との会話の有り難さがしみじみわかったのでした。
要求が満たされる事ーー美味しい食物、清潔、自由が、その全てを奪われた今になって、ピエールには完全な幸福に思われ、また職業、つまり生活の選択が、それが極度に制限された今になって、いとも容易な事に思われたのでした。
即ち、彼は、有り余る生活の便宜が、要求を満たされる事の幸福を激減し、職業選択の有り余る自由が、つまりかつて彼に教育と富と社会的地位を与えたあの自由が、職業の選択を解決のつかぬほど難しいものにして、職業の必要と可能そのものをすっかり滅ぼしていた事を、今はすっかり忘れていました。
ピエールの全ての夢想が、今は、自由の身になるその時に向けられていました。
後に、生涯に渡ってピエールは、この捕虜生活の1ヶ月と、諸々のもう戻る事の無い強い喜びに満ちた感銘と、特にこの時期にのみ経験した完全な心の安らぎと、完全な内的自由とについて、深い感動を持って思い出し、そして語ったものでした。
第1夜が明けて、早朝に起き出し、バラックを出て、ノヴォデヴィーチエ修道院の、まだ黒ずくんでいる円屋根と十字架を見た時、土埃を被った草原に散り敷いた朝霧を見た時、雀が丘のなだらかな起伏と、河の上にうねりながら、遠い薄紫色の朝霧の中に消えている(※訳文ママ おそらくスズメが囀りながら飛んでいて朝霧の中に消えてゆく様)木立ちの多い岸辺を見た時、顔に触れる爽やかな大気を感じ、野を渡ってモスクワの方から飛んで来る小鳥の鳴き声を聞いた時、やがて東の方から太陽の上縁が厳かに雲の影から浮き上がり、円屋根も、十字架も、朝霧も、遠方も、川面も、全てがきらきら輝き出した時、ーーピエールは未だ経験した事の無い、新しい生命の喜びと充実を感じたのでした。
そしてこの感情は、捕虜生活の間彼を去らなかったばかりか、却って境遇の苦しさが増すにつれて、ますます彼の心の中に成長して行ったのでした。
全てに対する覚悟が出来、精神が正しい姿勢を取ったという感情は、彼がバラックに来て間も無く仲間達の間に固まった、彼に対する尊敬の念によって益々強くピエールの内部に支えられました。
ピエールは、外国語の知識と、フランス兵達から示される尊敬と、請われたものは何でも与える気の良さ(彼は士官並みの週3ルーブリを支給されていました)、バラックの板壁に釘を打ち込んで兵士達に示した腕力と、仲間達への態度に見せる優しさと、身じろぎもせずに端座し、何もせずに考える事の出来る、彼らには不可解な能力とによって、兵士達に何やら曰くありげな、身分の高い人物と思われていました。
彼が以前に住んでいた上流社会では、彼に取って有害では無いまでも、窮屈だったいくつかの彼の特性ーー腕力、生活の快適な諸設備に対する蔑視、散漫、愚直などが、ここでこれらの人々の間では、英雄のような立場を彼に与えたのでした。
そしてピエールは、こうした見方が自分を縛っている事を感じていました。
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(解説)
ピエールは、生まれながらの裕福な貴族ですから、飢えも窮乏も不衛生も知りません。
捕虜となってバラック生活を送り始めて、どん底の生活を経験します。
しかし、周囲にはやっぱり人間が生きていて、彼らは(おそらく農民=農奴出身者が大半)其れなりに環境に適応して楽しげに不自由ながらも無いなりに工夫を凝らして生活していたのだと思います。
そんな彼らの姿は、ピエールに驚きと新鮮さを与えたのでは無いでしょうかね。
ピエールは『無い』という状態が、人間の知恵や精神の強さを導き出している事を発見したのだと思います。
そして、『今、ここで自分に出来る事は❓寒さや飢えを凌ぐには❓』を考え実行しなければならない必要性に初めて気づいたと思います。
その事を実感するにつれて、彼は今まで自分が置かれていた温室のような環境が、却って人間としての意欲や喜びを奪っていた事を認識するのですね。
空腹であってこそ、1個のじゃがいもが有り難く美味しくいただけるそんな喜びを、今不自由だからこういう仕事を今しなければならない、という生き方の指針を容易に見つける事に幸福感を感じているのだと思います。
そこにはもう、上流階級にどっぷり浸かっていた放蕩なピエールは居ません。
その自分の状態に満足感を感じているのだと思います。
そして、全てに対する覚悟が出来、精神が正しい姿勢を取ったという感情は、彼がバラックに来て間も無く仲間達の間に固まった、彼に対する尊敬の念によって益々強くピエールの内部に支えられるのでした。
まあ、この部分は『他者との関係』においての自己実現のようにも思いますが、やはり自分を認めてくれる環境っていうのは大事なのだ、という事だと思います。
なかなかこの環境を他人との関係において求めるのは難しい事だと思いますが、それでも自己の内面の幸福感といえど、仲間と共有出来ればそれはもっと良いよね、という事かな。。と思いました。
難しい部分で、うまく咀嚼出来ていないと思いますが、以上のように今のところ考えています。