(物語)
そして伍長は、さらにピエールに言いました。
「それからムッシュー・キリール、大尉殿に言われるが良いですよ。ご存知でしょう❓あれは良いお方で、決してお忘れにならんから、巡察に来られたら、大尉殿に言いなさい、貴方の為なら何でもしてくれますよ。」
伍長の言った大尉は、しょっちゅうピエールの所へ来て、長い事話し込み、色々と彼の面倒を見てくれていた男でした。
「この間もね、私にこう言うんですよ。いいか、トーマス、キリールは教養のある人間だ、フランス語がわかる。あれはロシア貴族で、不幸な目に遭ったが立派な人間だ。物の道理というものを知っている。何か要るものが有ったら、断ってはならんぞ。少しばかり学問ていうものをやると、教育ある人だのってものが好きになるものですよ。これは貴方の事を言ってるんだよ、ムッシュー・キリール。この間だって、貴方が居らなんだら、どんな事になってたか知れやしねえ。」
さらにしばらくおしゃべりをして、伍長は戻って行きました。
伍長が言ったこの間の事件というのは、捕虜達とフランス兵達の間に起こった喧嘩の事で、ピエールがうまく双方を取り鎮めたのでした。
数名の捕虜達がピエールと伍長の話を聞いていて、直ぐに何を言ったのか❓と尋ね始めました。
ピエールが、仲間の捕虜達に伍長の語った出発の話をしていると、1人の痩せた、顔色の悪い、敗れ服をまとったフランス兵が、バラックの扉口に近づいて来ました。
彼はピエールに向かって、シャツの仕立てを頼んだプラトーシュ(=プラトン・カラターエフ)という兵はこのバラックですか❓と尋ねました。
1週間ほど前にフランス兵達は、靴材料と亜麻布の支給を受け、捕虜達に靴とシャツを縫う作業をさせたのでした。
「出来てるよ、出来てまさあ、旦那❗️」と、カラターエフはきちんと畳んだシャツを持って出て来ながら言いました。
カラターエフは、仕事がし易いように股引にボロボロのシャツだけ、という格好で、髪は職人達がするように、木の皮の繊維で束ねているので、丸い顔がいよいよ丸く優しげに見えました。
「約束はーー仕事の兄弟って言いますでな。金曜日までに。。と言ったから、その通りに仕上げましたよ。」と、にこにこ顔で、自分の縫ったシャツを広げながら、プラトンは言いました。
フランス兵は、そわそわしながら辺りを見回しました。
そしてためらいを振り捨てるように、急いで軍服をかなぐり捨てると、シャツを手に取りました、軍服の下にはシャツを着ていないで、黄色い痩せた裸の身体に、垢で汚れた絹の長いチョッキを直に着ていました。
フランス兵は、そんな所を捕虜達に見られて笑われはしないか、と恐れていたらしく、急いでシャツを着ました。
「ほら、ピタリだ。」と、シャツのあちこちを引っ張りながら、プラトンは言いました。
フランス兵は、身体を包んだシャツを見回し、縫い目の具合を調べました。
「まあな、旦那、ここは被服工場じゃねえし、まともな道具もねえ、道具が無けりゃ蚤も殺せねえって言いますからな。」と、丸っこく笑いながら、我ながら我が仕事に満足しているらしい様子でプラトンは言いました。
「ありがとう、ありがとう、助かった。ところで残り布は❓」と、フランス兵はにこにこ顔で繰り返すと、紙幣を取り出してカラターエフに渡しました。「で、残り布は❓」
ピエールは、プラトンがフランス兵の言っている事を解りたがらぬ様子を見て取ったから、口を出さずに2人を見ていました。
カラターエフは仕立て賃の礼を言って、相変わらず自分の作品に見惚れていました。
フランス兵は残り布にこだわって、自分の言っている事を相手に伝えてくれるように、ピエールに頼みました。
「やつに残り布なんか何になるんだ❓」と、カラターエフは言いました。
「こっちにすりゃあ、大事な脛当が出来るのになあ。。まあ、仕方がねえや」そして、カラターエフは急に暗い顔になって懐から丸めた残り布を掴み出すと、フランス兵を見もせずに突き出しました。
「そら、持ってけ❗️」と、吐き捨てるように言うと、カラターエフは戻って行きました。
フランス兵は手の残り布を見て、考え込み、問いかけるようにピエールを見ました。
ピエールの目は、彼に何かを言ったようでした。
「プラトーシュ、おい、プラトーシュ、これやるよ❗️」と、残り布を渡しながら言うと、フランス兵はくるりと身を翻して立ち去りました。
「(恐らくフランス人が)キリスト教じゃねえ、なんて言われているが、やっぱり心ってものが有るんだなあ。。年寄り達がよくよく言ってたものだよ。汗の手はあったかいが、乾いた手は冷てえって。(さっきのフランス兵は)自分が裸のクセに、こんなものをくれたじゃねえか。」と、カラターエフは感じ入ったように微笑を浮かべて言いました。
「だが、こいつはすごく立派な脛当になるぜ。」と、言うと彼はバラックの中へ戻って行きました。。
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(解説)
ピエールは捕虜としてバラックに住んでいますが、フランス兵にも一目置かれているようですね。
彼に教養があり、どことなく品格もあり、穏やかな心の綺麗なさまは、敵国の兵士といえど同じ人間である以上、心を打つものがあるのでしょうね。
このさりげない表現の中にも、トルストイの静かな反戦意識を読み取る事が出来ると思います。
さて、ようやく1週間ほど前に、靴材料と亜麻布の支給を受けたフランス兵は、カラターエフに頼んでいたシャツの仕立てを受け取りにバラックを訪ねます。
カラターエフは道具もろくにない不自由な中で、誠実に仕事を仕上げていました。
そのフランス兵は、誰かに軍服の下の自分の粗末な身なりを見られはしていないかと辺りを気にしながらカラターエフが作ってくれたシャツを着てみます。
フランス兵は、カラターエフの仕事に満足して工賃を渡しますが、残り布を返してくれるように請求します。
物が不足している状況で、残り布といえど貴重だったのですね。
ところがカラターエフは、残り布をフランス兵に返したって役に立たせる事はできやしない、自分だったら立派な脛当に出来るのに。。と聞こえないふりをします。
フランス兵はピエールに通訳を頼み、ピエールがそうカラターエフに伝えると、彼は渋々残り布を乱暴にフランス兵に渡します。
フランス兵は手の残り布を見て、考え込み、問いかけるようにピエールを見ました。
ピエールの目は、彼に何かを言ったようでした。
と、フランス兵はその残り布をからターエフに上げるのですね。。だって、カラターエフのシャツはボロボロで、残り布で脛当くらい上げてもいいや〜ってとこでしょうかね。
それを見て、カラターエフは、このフランス兵だって、軍服の下は裸だった、フランス兵だって苦しい状況なのに、自分にとって貴重な残り布をくれたのだ、どうして巷で言われているようにフランス人がキリスト教じゃないなんて言えるのだ、彼らにはちゃんと『心』っていうものがあるのだ、とピエールに微笑を浮かべて言うのですね。
ここは、トルストイの人間は皆同じ神様の子で『心』はあるのだ、なんで敵味方に分かれて罵り合う事があろうか❓という静かな主張をカラターエフの言葉に乗っけたものだと思います。