(物語)
10月6日の早朝、ピエールはバラックを出ました。
そして戻って来ると、入口に立ち止まってじゃれつく短い曲がった足をした胴の長い藤色の小犬としばらく遊びました。
この子犬は彼らのバラックに住み着いて、カラターエフの側に寝ていましたが、時々何処か町の中へ出て行っては、また戻って来るのでした。
この小犬は、おそらく一度も飼い主を持った事が無かったらしく、今も誰のものでもなく決まった名前も持っていませんでした。
カラターエフと他の兵士達は灰色とか、時には垂れ耳などと呼んでいました。
誰のものでも無い事と、名も無く、種や毛色さえはっきりしたものを持たぬ事など、この藤色の小犬を少しも困らせていない様子でした。
毛のふかふかした尻尾が羽飾りのように膨らんでしっかりと立ち、曲がった足が実に良く勤めてくれて、後ろ足を1本実に優雅に持ち上げて、3本足で驚く程巧みに早く走りました。
何もかもがこの小犬にとっては喜びの種でした、嬉しそうにくんくん吠えながら、背を地面にこすりつけてごろごろ転がったり、日向ぼっこをしたり、そうかと思うと木片だの藁屑だのを相手にじゃれていると言う風でした。
この頃のピエールの身に付けているものといえば、以前の服装からのただ1つの名残である、汚い破れたシャツと、カラターエフの勧めで冷えないように足首の所で紐で結わえた兵士用の股引と、百姓外套と、百姓の帽子でした。
ピエールはここへ来てから肉体的にもすっかり変わりました。
父から受けた大柄で逞しい身体付きは相変わらずでしたが、もう肥満体には見えませんでした。
顎髭と口髭が顔の下半分を覆い、伸びるに任せたシラミだらけのもじゃもじゃの髪が、まるで帽子でも被ったように渦巻いていました。
目の表情はしっかりとして、落ち着いて生き生きと輝き、ビクともせぬ覚悟がみなぎっていましたが、これはこれまでのピエールには見られなかったものでした。
以前には、彼の目によく現れたあの放心の表情が、今は精力的な、とっさに行動と反撃に移りうる、隙の無い表情に変わっていました。
そして、足には何も履いていませんでした。
ピエールは、汚れた太い大きな足の指を動かしながら、得意そうに色々と足の姿勢を変えてみたりしていました。
そして、自分の裸足の足に見入る度に、いつも彼の顔には生気と自己満足の微笑が浮かぶのでした。
この裸足の足は、彼がここに来てから経験し、理解した事を全て思い出させました。
そしてこの思い出は、彼には快いものでした。
ここ数日、朝うっすらと霜の降りる、静かな澄み切った天気が続いていました、いわゆる小春日和でした。
空気は陽光に温められて暖かでした。
そしてこの暖かさが、まだ空中に感じられる朝の冷気の爽やかさと溶け合って、特に快いものでした。
我が家にくつろいだように襟をはだけ、とんがり帽子を被ったフランスの伍長(※最下級の下士官)が、短いパイプをくわえてバラックの角から出て来ると、親しげに目配せして、ピエールの側へ寄って来ました。
「良い日差しですな、あ、ムッシュー・キリール❓」フランス兵達はピエールをこう呼んでいました。
「まるで春のようだ。」そう言うと伍長は扉に寄り掛かり、何度勧めても、いつもピエールに断られているのに、またパイプをピエールに勧めました。
「こんな日和に行軍に出たらこたえられないな。。」と、彼は言い始めました。
ピエールは、出発についてどんな事を聞いているか❓と、うるさく彼に聞きました。
伍長は、ほとんど全ての部隊が出発している事と、捕虜の処置についても、今日命令が出るはずだ、と言う事を話しました。
ピエールのバラックで、兵の1人で、ソロコフと言う男が病状が悪化して危篤状態に陥っていたので、ピエールは、その兵士の世話をしてやらねばならぬ事を伍長に伝えました。
すると伍長は、その為に常設の移動救護所というものがあるから、ピエールは心配しなくとも良い、それに病人についてはあらゆる事態について、上層部ではあらかじめ方策が講じられている、とピエールに語りました。
そして伍長は、さらにピエールに言いました。
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(解説)
大貴族ピエールが捕虜として生活するバラックで、どのように成長しているかを説明している部分だと思います。
おそらく、ここでは『ただ生きるだけが尊い』という毎日ではないか、と思います。
わずかな食料と衣類だけで、毎日今日も生きている事だけに感謝する日々をピエールは送っている、と推定します。
それが、彼に何か大事なものを教えてくれた、という事をトルストイは言いたいのではないか❓と思います。
この世の欲望や葛藤から逃れて、ピエールは毎日規則正しく生活し、寝る前には『ああ。。今日も生きてこれました、感謝します。。と祈って安らかな眠りに就く』そして、この先の延長に『死』が待っていたとしてもそれを安らかに受け入れよう。。という境地まで達しているように思います。
小犬が登場していますが、この子犬は今まで特定の飼い主を持った事がなく、一体どんな種類の犬かもわかりませんが、自由で幸せそうです。
この子犬の表現に、『飼い主が居ない=なんらこの世へのしがらみが無い➡︎だからこそ自由だ』という事の比喩的表現のようにも思えます。
さて、伍長がピエールの元にやって来ますが、このフランス人伍長も、敵国人ではありますが、一人の人間としてみた場合は、ピエールの良い友人で、気さくにピエールの問いに答えています。
そろそろ捕虜達にも行軍が始まるようです。
ピエールは、同じバラックの危篤の兵士の処遇を心配していますが、伍長は「大丈夫」と説明しています。
さらに伍長の話は続きます。