(物語)
「マリィはリャザンを経由していらしたのよ。」と、ナターシャは語りました。
ナターシャは、彼の前で彼女をこう呼んで、自分でも初めてそれに気がついたのでした。
「ほう。。それで❓」と、彼は言いました。
「聞かされたんですって、モスクワがすっかり焼けた事を」ナターシャは言葉を途切らせました、言ってはいけない事でした。
「そう、焼けた。。そうですね。。実に残念な事です。」と、彼は言い、前方を見つめ始めました。
「そう。ニコライ伯爵に会ったそうだな、マリィ❓」と、アンドレイ公爵は2人の気を引き立てようとする様に言いました。
「彼がこちらへ寄越した手紙だと、お前をすっかり好きになったらしいよ。」
彼は、その言葉が生きている人々にとってどの様な複雑な意味を持つのか、など全く理解出来ないらしく、淡々と静かな声で続けました、「お前も彼を好きになってくれたら、こんな良い事は無いのだがな。。お前達が結婚してくれたら。。」と、彼は付け加えました。
しかし、この言葉は、マリヤにとって、彼が全ての生きている者から恐ろしく遠い所へ去ってしまった事を証明する以外の、何の意味も持たないものでした。
「どうして私の話なんぞ❗️」と、彼女は静かに言って、ナターシャをチラと見やりましたが、ナターシャは彼女の視線を感じつつも、そちらへ目をやりませんでした。
「ニコールシカにお会いになりたいわね❓あの子はいつも貴方の事を思い出していたわ。」と、ふいにマリヤは震えを帯びた声で言いました。
アンドレイ公爵は、初めて微かな微笑を見せました。
しかし、彼の顔を知り抜いている公爵令嬢マリヤは、それが喜びの微笑、息子に対する優しい愛の微笑では無く、公爵令嬢マリヤが自分なりの考えで、彼を人間の感情に引き戻す最後の方法を用いた事に対する、優しい静かな冷笑である事を見抜いて慄然とするのでした。
「そうとも、ニコールシカに会えるのは非常に嬉しいよ。元気かい❓」
ニコールシカはアンドレイ公爵の所に連れて来られると、怯えた様な目で父を見ましたが、誰も泣かないので、自分も泣きませんでした。
アンドレイ公爵は息子に接吻しました、そして、何を言って良いかわからない風でした。
ニコールシカが連れ去られると、公爵令嬢マリヤはもう1度兄の側に寄り、接吻しました。
そして、もう堪える力を失って、わっと泣き崩れました。
アンドレイ公爵は、じっと彼女を見つめました。
「ニコールシカの事を泣いているのか❓」と、彼は尋ねました。
「マリィ。。お前知っているね、福音。。」と、言いかけて彼はふっと口をつぐみました。
「何とおっしゃったの❓」
「何でも無いよ。ここでは泣かんで欲しいな。」と、やはり冷たい目で妹を見つめながら、彼は言いました。
マリヤが泣き出したのは、妹は、ニコールシカが父の無い子になる事を憐れんで泣いているのだ、と、アンドレイ公爵は悟りました。
彼は力を振り絞って、生に戻ろうと努力し、そして妹達の考え方に移って見ました。
『さもあろう、これは妹達にはかわいそうな事に思われるに違いない。こんな簡単な事なのに❗️』と、彼は考えました。
『空の鳥達は、撒きも刈りもしないが、汝らの父はこれを育ててやるではないか』と、彼は自分に言いました、そして同じ事を公爵令嬢に言おうとしました。
『いや、言わぬ方が良い、彼女らにはわかりっこないのだ❗️皆が尊いものと思っているこれらの全ての感情、我々に極めて重要なものと思われている全ての思想、そんなものはーー不要なものだ、ということが、彼女らには理解できないのだ。我々は所詮理解し合う事は出来ないのだ❗️』そう思って、彼は沈黙に落ちました。
ニコールシカは7歳でした、彼はようやく字が読める程度で、何もわかっていませんでした。
その日以後、彼は知識や観察力や経験を次第に身に付けながら、世の中の多くの事を知る様になりました。
しかし、これらの後で身についた能力の全てを持ってしても、今この日の事を、それを理解した以上に深く理解する事は出来なかったでしょう。。
ニコールシカは(彼なりに)全てを悟りました。
そして泣かずに部屋を出ると、後から出て来たナターシャの側に歩み寄り、彼女の胸に顔を埋めてわっと泣き出しました。
その日から彼は、デサールを避ける様になり、公爵令嬢マリヤか、マリヤよりももっと自分を愛してくれる様に思われるナターシャに甘えました。
公爵令嬢マリヤは、アンドレイ公爵の部屋を出ると、ナターシャの顔が語ってくれた事をすっかり理解しました。
彼女は、彼の生命が助かる見込みについて、もうナターシャとは語りませんでした。
彼女は、ナターシャと交代で彼の枕辺に付き添い、もう泣きませんでしたが、召されようとする人間の上にありありと感じられる、その究め難い永遠のものに、心を向けながら、絶えず祈りを捧げるのでした。。
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(解説)
アンドレイは、公爵令嬢マリヤがニコライ伯爵に出会った話をします。
そして2人が愛し合って結婚すれば良いのに。。と言います。
前述の様に、もし、マリヤがニコライと結婚すれば、アンドレイ公爵とナターシャの結婚は『無い』事になります。
アンドレイが正気なら、この様なデリケートな話は出来ないのでですよね、ナターシャが余りにも可哀想です。
マリヤも、今、ここでその様な話はしなくとも。。。と言います。
アンドレイ公爵の中では、自分はもう直に昇天するのだから、そうでしょう〜という感覚ですね。
3人の間に微妙な空気が流れます。
ふと、マリヤはアンドレイ公爵に、「ニコールシカに会いませんか」と言います。
マリヤは、無意識にアンドレイの息子を呼び寄せることによって、アンドレイを人間の感情に引き戻したい。。と思ったのでした。
しかし、そんなマリヤの意図はお見通しの様に皮肉な微笑をアンドレイは浮かべるのでした。
小さなニコールシカに対しても、アンドレイは接吻をして「会えて嬉しい」と言いますが、どことなくぎこちないのでした。
マリヤは、ニコールシカが『父の居ない子』になってしまうのを悲しんで号泣します。
それを見てアンドレイ公爵は、「ここでは泣かんで欲しいな。」と、やはり冷たい目で妹を諭します。
この時のアンドレイ公爵の頭の中は、父親が居なくても、いや、居ない方が『ニコールシカ自身の感性』で、物事の真理を知る事が出来るのだ、それが大事なのだ、と思ったという事だと思います。
アンドレイ公爵は、極めて世俗的な父親に『この世で立派に身を立て、ボルコンスキー家を繁栄させる様に』育てられて来て、いかに外部の高い評価を受けるか。。という価値観で生きて来た人です。
そして、死の床にあって、ようやく、それが虚しい価値観で、もっと偉大な真理を知る事が出来たのでした。
彼は、自分の経験から、ニコールシカがもっと自由にバイアスの掛かっていない知識の習得をすべきだ、と言っているのだろう、と私は理解しています。
しかし、まだ幼いニコールシカにしてみれば、父の眼差しが言わんとする事は感覚的にしか理解出来ません。
そして、ニコールシカが成長して学問を積んだとしても、父の言っている意味は到底理解出来ない、すなわち、父と同じくらいの(この世での)挫折感と絶望感、おそらく死に近い経験をして初めて到達しうる真理だ、という事をトルストイは言っている様に思います。
また、ニコールシカの感情面は、やはり、『父に遮断された』という思いが強かったのだと思います。
父が母(=リーザ)に見せたあの遮断、そして、おそらくそのリーザになるかもしれなかったナターシャも経験した(今回で2回目ですね)アンドレイ公爵からの遮断を、感じたと思います。
ニコールシカは、本能的にナターシャの中に顔も覚えていない『母:リーザ』の面影を見たと思います。
だから、彼はナターシャに寄り添って貰うと安心したのだと思います。