(物語)
この言葉で、アンナ・パーヴロヴナが伯爵夫人の病気の上に垂れていた秘密のとばりを少しもたげて見せたものと早飲みこみをして、あるうかつ者の青年が、高名な名医達を招かないで、危険な薬を与えかねないような山師の治療を受けているのはどうしたものか❓などと、場所柄をわきまえぬ意見を述べました。
「貴方の情報の方が私のより正しいのかも知れませんね。」と、ふいにアンナ・パーヴロヴナはこの社交慣れしていない青年に毒のある言葉を投げつけました。
「でも、私はその医師が大そう学識豊かな名医だって事を、確かな筋から伺っておりますがねえ。だって、スペインの女王の主治医ですのよ。」こうして青年をピシャリと決めつけると、アンナ・パーヴロヴナはビリービンの方へ近付いて行きました。
ビリービンは、別のグループの中で、額に皺を集め、どうやら(警句)を吐く前触れに、まさにその皺を伸ばそうとしながらオーストリア人達の話をしていました。
「我ながらあれは傑作でしたな❗️」と、ペテルブルグで『ペトロポールの英雄』と呼ばれていたヴィトゲンシュタイン(※ロシアの元帥。1812年にフランス軍のペテルブルグへの道を阻止した英雄で、クトゥーゾフ死後の総司令官)が奪取したオーストリア軍の軍旗を送り返す際に付された外交文書について、彼は言いました。
「あら、それはどう言うのでしたかしら❓」と、アンナ・パーヴロヴナは彼に声を掛けて、自分はもう知っているその禁句を聞かせる為に一同を沈黙させました。
そこでビリービンは、自分の作成した外交文書の次の一句を改めて披露しました。
「皇帝は、オーストリアの軍旗をここに返還するものであるが、この親愛なる迷い子の軍旗は、道を外れて彷徨っている所を、発見されたものである。」と、皺を伸ばしながら、ビリービンは語り終えました。
「傑作だ、実に傑作だよ。」と、ワシーリィ公爵は言いました。
「そいつはワルシャワへの道ですな、きっと、」と、だしぬけにイッポリト公爵が大声で言いました。
その事で彼が何を言おうとしたのか、わからないで、一同は彼の顔を見ました、イッポリトもびっくりしたような明朗な顔で周りを見回しました。
彼にも、皆と同じように自分の言った言葉の意味がわかりませんでした。
イッポリトは外交官生活の間、こんな風に出し抜けに口走った言葉がひどく機知に富んだものである事に気付いた事が何度かありました。
だから今も彼は、もしや。。と思って、真っ先に舌の上に上ったこの言葉を、弾き飛ばしたのでした。
『ひょっとしたら、皆をわっと沸かせるかも知れんぞ』と、彼は考えました。
『まあ、不発に終わっても、皆が何とか格好をつけてくれるさ』
果たして、気まずい沈黙が流れた時、アンナ・パーヴロヴナがやり込めてやろうと待ち構えていた当のあまり愛国的でない人物が入って来ました。
そこで彼女は、笑顔を作り、横でイッポリトを脅す仕草をしてから、ワシーリィ公爵を招き、蝋燭を2本立てて書簡を渡して、朗読を始めてくれるように頼みました。
一同は、固唾を飲みました。
「国の父なる皇帝陛下よ❗️」と、ワシーリィ公爵は厳かに呼びかけて、これに対して何か異議があるか、と問いかけるように、ジロリと一同を見回しました。
しかし、誰も何も言う者は居ませんでした。
「新しきエルサレムたる美しき古都モスクワは、母が健気な子らを抱擁の中に迎えるように、おのれのキリストを迎え」彼はいきなり「おのれ」と言う言葉に力を入れました。
「湧き上がる靄(もや)を通して、祖国の輝ける栄光を予見し、感動を込めて高らかに歌う。未来に幸福あれ❗️」ワシーリィ公爵は、すすり泣くような声でこの最後の祈りを唱えました。
多くの者が、自分は一体どんな悪い事をしたのだ❓とでも言いたげに、なんとなくおどおどしていました。
アンナ・パーヴロヴナは、老婆が聖餐式の祈りをつぶやくように、もう先回りしてひそひそと『たとえ神を畏れぬ傲れるゴリアナ(※旧約聖書、ダビデに石で打殺されたペリシテの巨人)。。。』と、つぶやいていました。
ワシーリィ公爵は朗読を続けました。
『たとえ神を畏れぬ傲れるゴリアテが、おのがフランスの境を超えてロシアの国土に死の恐怖を持ち込もうと、愛の信仰、ロシアのダビデの石が、たちまちにしてその血に飢えて怒れる頭を打ち砕くであろう。。我らが祖国の幸福の古の守護神セルギイのこの聖像を、我が皇帝陛下の前に捧げまつる。。」
実に力強い❗️堂々たる文章だ❗️」と、読んだ者と、書いた者に対する賞賛の声が起こりました。
この朗読に感動して、アンナ・」パーヴロヴナの客達は、その後ややしばらく祖国の現状を語り合ったり、近日中に行われるはずの会戦の帰趨について、様々な予測をし合ったりしていました。
「見ててごらん。」と、アンナ・パーヴロヴナは言いました、「明日の陛下のお誕生日(※アレクサンドル皇帝の誕生日は実際は12月。物語上では明日の設定のようです)には、きっと良い知らせが入りますから。私には良い予感がしますのよ。」
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(解説)
ボロジノの会戦を朝に控えたアンナ・パーヴロヴナの夜会では、陛下を中心とした愛国心を高めようと言う儀式(❓)が行われています。
当時のロシアでは、文化面でのフランスの影響は強く(公用語はフランス語でしたしね)、フランス軍に国境を越えられたのに、未だにフランス劇場で遊んでいる高官達が何人か居たのですね。
そんな連中に、お灸を据えてやろうとアンナ・パーヴロヴナは、愛国心たっぷりの感動的な書簡を、芝居掛かったワシーリィ公爵に読ませて、周囲を『愛国心の感動の渦』に巻き込みます。
そして、アンナは「明日の皇帝陛下の誕生日にはきっと良い知らせが舞い込むでしょう。」と締めくくります。
アレクサンドル1世の誕生日は12月ですが、ここでは、物語の盛り上がり的にも敢えて8月27日(ロシア暦)としたのではないかな、と思います。
また、この部分の冒頭では、実はべズーホフ伯爵夫人(=エレン)は、何か表沙汰にできない事情でイタリア人の医師の治療を受けている事が、周知の事実(ではあるが、暗黙の了解)として記載されています。