(物語)
老人はもう片方が裸足になっていました、小男のフランス兵は、残った長靴を老人の足かた引き抜くと、長靴をぱんぱんと打ち合わせました。
老人は、すすり泣きながら何か言いました、しかしピエールは目の隅でチラとそれを見ただけでした。
彼の全ての注意は、上っ張りのフランス兵に注がれていました。
そののっぽが、若い女の前に詰め寄り、ポケットから手を出して、彼女の襟元に手を掛けたのでした。
アルメニア美人は、長い睫毛を伏せたまま、そのままの姿勢でじっと座り続けていました、そしてフランス人兵にされた事など見えも感じもしないかのようでした。
ピエールがフランス兵まで数歩の距離を駆け抜ける間に、上っ張りののっぽの略奪兵は、もうアルメニア美人の首飾りをむしり取っていました。
若い女は両手で首を抑えて、絹を裂くような悲鳴を上げました。
「この女に触るな❗️」と、ピエールは、怒りに燃えたかすれ声で喚きざま、のっぽの猫背の肩を掴んで突き飛ばしました。
のっぽはひっくり返りましたが、直ぐに起き上がって逃げ出しました。
ところが、その相棒が、長靴を放り出すと、ごぼう剣に手を掛け、ものすごい形相でピエールに詰め寄りました。
「おい、ふざけるな❗️」と、フランス兵の小男は言いました。
ピエールはそうなると何もわからなくなり、力が10倍も出る、あの憤怒の爆発に酔っていました。
彼は裸足のフランス兵に飛びかかり、ごぼう剣を引き抜くよりも早く着き転がして、拳骨の雨を降らせていました。
周りの群衆からどっと歓声が上がりました、そして同時に通りの角からフランス槍騎兵の1隊が現れました。
槍騎兵達は馬を飛ばして来て、ピエールとフランス兵を取り巻きました。
それからの事は、ピエールは何も覚えていませんでした。
彼はただ誰かを殴った事と、殴られた事と、結局両手を縛られて、フランス兵達に掴まり、身体を探られたような気がしただけを、おぼろげに覚えていました。
「こいつめ、短刀を持っています、中尉どの。」
「ほう。。凶器だな❗️」と、士官は言って、ピエールと一緒に逮捕された裸足のフランス兵の方を向きました。
「よろしい、軍法会議ですっかり申し立てろ。」と、士官は言いました。
続いて士官はピエールの方を向きました。「フランス語がわかるか❓」
ピエールは血走った目で辺りを見回しただけで、返事をしませんでした、その形相がひどく凶暴に見えたらしく、士官が低声で何か言うと、さらに4名の槍騎兵が列から出て、ピエールの両側に立ちました。
「通訳を呼んで来い。」隊列の後方から、ロシアの文官服を着た小柄な男が馬を進めて来ました。
その服装と話しぶりで、ピエールは直ぐに、それがモスクワのある商店に勤めていたフランス人である事を知りました。
「この男は普通の庶民らしくありませんが。。」と、ピエールをじろじろ見て、通訳は言いました。
「うん、なるほど。こいつはてっきり放火犯人だな。何者か聞いてみい❓」と、士官は言いました。
「きさま誰か❓きさま、隊長に答えなければならない。」と、通訳は言いました。
「私は何者か言えぬ。私は貴方の捕虜だ。連行するがよい。」と、ピエールはふいにフランス語で言いました。
「ほう、そうか❗️」と、士官は眉をひそめて言いました。「よし、前進❗️」
槍騎兵達の周りに群衆が集まっていました、ピエールに最も近い所に、女の子を抱いたあの老婆が立っていました。
「お前さん、何処へ連れて行かれるんだね、ねえ❓この子があの人達の子で無かったら、何処へやったらいいんだよオ❗️」と、彼女は言いました。
「あの女はどうしたと言うのか❓」と、士官は尋ねました。
ピエールはまるで酒に酔ったような心地がしていました、自分が救い出した女の子を見ると、彼の昂揚した気分は一層燃え立ちました。
「あの女がどうしたって❓」と、ピエールは言いました。「俺が火の中から救い出した俺の娘を連れて来てくれたんだ。」と、彼は言ってのけました。
「さようなら❗️」そして彼は、どうしてこんな無意味な嘘が口を突いて出たのか、自分でもわからずに、決然とした誇らしげな足取りで、フランス兵達の間を歩き出しました。
このフランス騎兵巡察隊はデュロネール(※占領下のモスクワ司令官)の命令で略奪兵の取り締まりと、放火犯人達の逮捕の為に、モスクワの各方面に派遣された隊の1つでした。
そして容疑者の中で、ピエールが最も怪しく思われたのでした。
衛兵本部が設けられているズボフスキイ障壁内の大きな建物の宿舎に、一同は連行されましたが、ピエールだけは厳重な監視の下に、独房に収容されたのでした。。
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(解説)
フランス略奪兵の1人が、アルメニアの若い女性の首を触って首飾りをむしり取ったので、ピエールは急いで駆けつけこのフランス兵を突き飛ばします。
相棒のもう1人のフランス兵が「ふざけるな❗️」と短刀を抜こうとしたので、元々怪力のピエールの憤怒は爆発します。
丁度その時、フランス騎兵巡察隊が略奪兵の取り締まりと、放火犯人達の逮捕の為にやって来て、この騒ぎを見咎めてピエールは略奪兵と共に逮捕されてしまいます。
ピエールは興奮していたので、とても凶暴な顔になっており、おまけに身体検査で短剣を所持していたのを見つかります。
ピエールは、『放火犯』の容疑で逮捕され、しかも、一番怪しい人物という事で独房に収容されたのでした。。
ここで、第3巻が終了します。
ピエールは果たして生きて帰れるのでしょうかね。。
(追記)
ここでは、アルメニア美人に、白痴じみた薄汚い気味悪いフランス兵が狼藉を働くシーンが描かれていますが、これは『モスクワに、勝手に侵入したフランス兵のイメージ』を、ロシア人であるトルストイがもじって表現している部分と思います。
トルストイは、9月2日にポクロンナヤ丘の上でナポレオンがモスクワを眺めた時、『無数の寺院を持つこのアジアの都、聖なるモスクワ、これがあの美女だ、あの首都なのだ。』とモスクワについての感想を述べています。(第3巻・第3部(19−1)モスクワを征服したナポレオン、勝利❓に酔いしれてしまう。)
すなわち、アルメニアの東洋の美女は、モスクワを象徴していると思います。
そこへ、何も知らない薄汚いフランスが、土足で踏み込んでいる。。という『たとえ』ですね。。
で、それを見たロシア人代表のピエール・べズーホフが、『モスクワの自律(=アルメニア美女の持ち物を断りもなく奪う)を蹂躙するな❗️』と怒っているのですね。
これは、トルストイのいう所の『真の愛国心』をピエールが代表として示した、という場面と捉える事が出来ると思います。
しかし、ロシア人の真の愛国心は侵略者のフランスにとっては無価値なものであり、ピエールは捕らえられてしまう。。
これが許されるのか❓
そういうトルストイ先生の問い掛けが聞こえて来る気がするのですけれどね、私には。
ピエールは絶対に生きてモスクワに戻らなければならないのですよね、筋的には。