(物語)
『ああ、たまらん、いつまで続くんだ、こんな幻覚が❗️』こう思って、アンドレイ公爵はその顔(=ナターシャ)を脳裏から腹い捨てようと努めました。
しかし、その顔は現実の力で彼の前に浮かんでいて、次第に近づいて来ました。
アンドレイ公爵は先程の純粋な思索の世界へ戻ろうとしましたが、もはやそれは出来ませんでした、そして幻覚が彼をその領域へ引き込んで行きました。
静かな囁くような声が、その規則正しいつぶやきを続け、何かが押し付け、伸びて行き、そして不思議な顔が彼の前に浮かんでいました。
アンドレイ公爵は現実に戻ろうとして、ありたけの力を振り絞りました。
彼はわずかに身体を動かしました、するとふいに耳の中が鳴り出し、目の前がぼうっと霞み、そして彼は水中に沈んだ人間のように、意識を失ってしまいました。
あっと我に帰ると、たった今、指示を受けたその新しい清らかな神の愛で、世界中の誰よりも強く愛したいと彼が望んでいた、その生きたナターシャが、彼の前にひざまずいていました。
それで生きている本当のナターシャである事を、彼は悟りました、そして静かな喜びを感じました。
ナターシャはひざまずいたまま、嗚咽を抑えながら、怯えて、そのまま凍りついてしまったように彼に目を見張っていました。
その顔は蒼くて、仮面のように動きませんでした。
アンドレイ公爵は、ほっと溜息をつくと、静かに微笑して、手をさしのべました。
「貴女でしたか❓何という幸福だろう❗️」と、彼は言いました。
ナターシャは素早い、しかし用心深い動作で膝でにじり寄ると、そっと彼の手を取り、その上に顔を寄せて、わずかに唇を触れながら接吻しました。
「お許しくださいませ❗️」と、顔を上げて、じっと彼を見つめながら、彼女は囁くように言いました。
「あたしをお許しくださいませ❗️」
「貴女を愛しています。」と、アンドレイ公爵は言いました。
「お許し。。」
「何を許すのです❓」と、アンドレイ公爵は尋ねました。
「お許し下さい。あたしがした事を。」と、ナターシャは聞こえない程の途切れ途切れのささやき声で言うと、何度も何度もわずかに唇を触れながら、彼の手に接吻し始めました。
「僕は前よりももっと強く、もっと純粋に、貴女を愛しています。」と、彼女の目が見つめられるように、片手で彼女の顔を上へ向けながら、アンドレイ公爵は言いました。
その目は、幸福の涙を一杯にたたえ、愛の喜びと同情を浮かべて、おどおどと彼を見つめていました。
泣き出しそうに唇を膨らませた、やつれた蒼白いナターシャの顔は、醜いと言うよりは、むしろ君悪い程でした。
しかし、アンドレイ公爵はその顔を見ていませんでした。彼はきらきら輝く目を見ていました。。その目は美しく輝いていました。
2人の背後で話し声が聞こえました。
侍僕のピョートルが、今はすっかり目を覚まして、軍医を揺り起こしました。
足のうずきの為にずっと眠っていなかったチモーヒンは、もうさっきからその情景をつぶさに見ていました、そして、しきりに裸の身体をシーツで隠しながら、ベンチの上で縮こまっていました。
「これはどう言う事です❗️どうぞお引き取り下さい、奥さん」と、寝床の上に身を起こしながら、軍医は言いました。
その時、扉を叩く音が聞こえました、伯爵夫人が娘の居ないのに気が付いて、小間使いを探しに寄こしたのでした。
夢の最中に起こされた夢遊病者のように、ナターシャは部屋を出ました。
そして自分の部屋に戻ると、わっと自分の寝床に泣き伏しました。
その日以来、ロストフ家の一行が旅を続けている間、どの休憩地でも宿舎でも、ナターシャは重傷のボルコンスキーの側を離れませんでした。
そして軍医は、若い娘がこれ程強い気性と、負傷者を看病する巧みな腕を持っているとは思いませんでした。
アンドレイ公爵が旅の途中で、ナターシャの腕に抱かれて息を引き取るかもしれぬと言う考え(軍医の言葉では、極めてあり得る事でした)が、伯爵夫人にはどんなに恐ろしい事に思われても、彼女はやはりナターシャに反対することは出来ませんでした。
こうして重傷のアンドレイ公爵とナターシャの間に親密な関係が固まった事から、公爵の負傷が癒えたら以前の婚約関係が復活するのでは無いか、と言う考えは、誰の頭にも有りましたが、誰もそれを口に出しませんでした。
ましてナターシャとアンドレイ公爵は、そのような事をおくびにも出しませんでした。
生か死かの未解決の問題は、ボルコンスキーの上ばかりでなく、全ロシアの上に垂れかかって、他の全ての予想を遮っていたのでした。。
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(解説)
アンドレイ公爵は、まさにナターシャに会いたい❗️と思っていたその意識朦朧としていた時に、ナターシャが現れるのですね。
これは、やはり『神のお導き』とも考えられますね、だって、ナターシャだってアンドレイ公爵が長い外国旅行に出かけて以来会ってなかった訳で、自分はただただアンドレイ公爵に許しを請いたいと願っていたのですから。。
アンドレイ公爵が(恐らく瀕死の)重傷を負った、と聞いた時、彼女にはこのまま自分が許される事なく(アンドレイ公爵が)この世を去る事が恐ろしい事だったのだと思います。
もちろん、彼女は自分があんな過ちを犯してしまって、自分の気持ちは一体本当はどうだったのか。。それも確認したかったのも有ります。(この時点では、ナターシャは本当にアンドレイ公爵に恋愛感情を抱いていたのかは不明ですね。。残念ながら。)
アンドレイ公爵も、前回にも述べましたように、今までナターシャの全てを愛せていなかった自分に気が付き、『ああ。。あの子に寂しい思いをさせた自分が悪かったのに、なんで彼女の事をあんな風になじったのだろう。。もう一度会って愛している、全てを愛しているから安心して欲しい。。と言いたい』と思っていたのですからね。
この部分で、アンドレイ公爵がただただ『貴女を、今の貴女を前よりももっと愛しています。』と言えていますね、これはイコール、『自分(=アンドレイ公爵)の無知と過ちを許してください』と言っているのと同じだと思います。
この2人のお互いに対する気持ちは、もう俗世間のものでは無かったと思います。
婚約復活とかそう言うのを超えた次元での『愛』だったと思います。
2人の将来が無くても関係無いのですよ、時代的にも、それが理解されるような世相だったと思います。
トルストイが、こんな愛をピエールとナターシャとの間でも、アンドレイ公爵とナターシャとの間でも描こうとしたのは、将来が望めない愛がこの時代普通に有ったからでは無いか、だから、読者の方にもそれを読みこなす素質が有ったのでは無いか、と思います。
私達が愛を求める時に、相手の全てを自分のものにして幸せになりたい、と思うのが普通だと思いますが、こんな美しい愛の世界を描く事が出来るトルストイの文学の中の愛で、少し魂を浄化した気持ちになるのですよ、私はですね。