戦争と平和 第3巻・第3部(15)ロストフ老伯爵、負傷者の為に貴重な荷馬車を分け与えると言う。 | 気ままな日常を綴っています。

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(物語)

モスクワ最後の日が来ました、明るいうららかな秋晴れの日でした。

その日は日曜日で、いつもと同じ様に何処の寺院からも朝の勤行を告げる鐘の音が鳴り渡っていました。

誰もまだ、モスクワを待ち受けているものを、理解出来ずにいるかの様でした。

 

ただ社会状態を示す2つの指針だけが、モスクワの置かれている状態を示していましたーーそれは民衆、つまり貧民階級と工場の労働者達、屋敷勤めの召使い達、百姓達の群れが、役人達や神学生達や貴族階級達を吸収した大群衆に膨れ上がって、この日の早朝から三つ山方面へ繰り出して行きました。

そこにしばらくたむろしていましたが、ラストプチンが現れないので、モスクワが放棄されると確信すると、この群衆はたちまち崩れて、モスクワ中の酒屋や居酒屋へ散らばって行きました。

 

この日の物価も、モスクワの状態を示していました。

武器や金や、荷馬車や馬などの値段は上昇し続けていましたが、紙幣や都会の贅沢品の値段は下落するばかりでした。

ロストフ家の由緒ある古い屋敷には、従来の生活条件の崩れがごくわずかしか現れませんでした。

大勢いる召使い達のうち3人が夜更けに逃げただけでしたし、何も盗まれませんでした。

物価の面では、村から応援に来た30台の荷馬車は、それ自体が莫大な財産で、途方も無い金額で譲り受けたいと申し出る者が何人も現れました。

 

そればかりか、負傷した士官達の使いの者が、モスクワ脱出の為に荷馬車を譲って欲しい。。と、ロストフ家の使用人達に哀願しました。

この哀願を受けた執事は、負傷者達に気の毒とは思いましたが、そんな事は伯爵の耳に入れる事は出来ないと言って、きっぱりとはねつけました。

30台の荷馬車では全ての負傷者達を救う事は出来ませんでしたし、皆が気の毒だからと言って、我が身と家族の事を考えない訳には行かないからでした。

 

9月1日の朝、伯爵は目を覚ますと、朝方にやっと寝入った夫人を起こさない様に、そっと寝室を出て玄関へ出て行きました。

綱をかけられた荷馬車がずらりと庭に並んでいました。

玄関には箱馬車が横付けになっていました。

車寄せの所で執事が、年寄りの従卒と片手に包帯を巻いた蒼白い若い士官と何やら話していました。

「どうだ、すっかり支度はできたかな❓ワシーリイチ❓」と、伯爵は人が良さそうに士官と従卒を見やり軽く会釈をしながら言いました(伯爵は新しい人が好きでした)。

 

「今すぐにでも馬をつけられます、旦那様。」

「そりゃ良かった、奥様がお目覚めになったら、直ぐに出発しよう。どうかなさったかな❓」と、彼は士官の方に顔を向けました。

「伯爵、お願いです。どうかお宅の荷馬車の片隅にでも乗せてください。荷物は何も有りません。」

士官がまだ言い終わらぬうちに、従卒が自分の主人の為に同じ願いを伯爵に申し出ました。

伯爵は「ワシーリイチ、手配してあげなさい。。」と、何やら曖昧な表現で言った途端、庭にも、門の辺りにも、傍屋の窓にも、負傷者と従卒達の姿が見えました。

彼らは皆、伯爵を見ると、ぞろぞろと玄関の方へ集まって来ました。

「まあ、仕方がない、何か下ろすんだな。」と、誰かに聞かれはしないかと思われる様に、伯爵は秘密めいた声でそっと執事に言いました。

 

9時に伯爵夫人が目を覚ましました。

すると夫人付きの小間使いが、令嬢方の夏の衣装をここに残して行く訳には行かない事と、マダム・ショッスの荷物が荷馬車から下された事などを報告しました。

伯爵が、その木の良さから負傷者達を連れて行く事を指示した為に、荷物が下されれ、負傷者達が乗せられていると言うのでした。

伯爵夫人は夫を呼ぶ様に命じました。

 

「実はな、お前、品物はどんなものでもまた手に入れる事は出来ようが、あの人達がここに取り残されたらどうなる❓そこを一つ考えてみてくれんか❓何処へ急ぐ訳でも無いしさ。。」

彼女はお得意の悲しげな諦めの顔を作って夫に言いました。

「ねえあなた。。貴方は家屋敷をタダで人手に渡す様な事をしておきながら、子供達の財産まですっかり無くしてしまおうとなさるのね。。私は賛成できません、お断りします。負傷者には政府と言うものが付いています。」

伯爵は話にならんと言う風に両手を振ると、何も言わずに部屋を出て行きました。

 

「パパ、何のことですの❓」彼の後から母の部屋に入って来たナターシャが言いました。

「なんでもない❗️お前には関係の無い事だ❗️」と、伯爵は腹立たしげに言いました。

「どうしてママはお嫌なのかしら❓」

「余計な事は言わんで良い❗️」と、伯爵は声を荒くしました。

「あら。。パパ、ベルグが来たわよ。」と、彼女は窓から眺めながら言いました。

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(解説)

いよいよロストフ家にモスクワ最後の日がやって来ます。

モスクワは、何が起こるのか誰も理解できない程の、いつもと変わらぬ静かな日曜日の朝を迎えます。

ラストプチンに煽られた群衆は三つ山でラストプチンの出現を待ちますが、彼は一向に現れませんでした。

そこで初めて群衆は『モスクワが放棄された事』を認識し、モスクワの街に散らばって憂さ晴らしに酒屋で飲み騒いでいるようです。

 

モスクワの物価は明らかなに『危機状態』を示していました。

脱出の為の馬や馬車が高騰していたのです。

これに対して、家具、ドレスや宝石類などの高級品は値崩れしていました。

良識ある市民達は、一刻も早くモスクワを脱出しなければならない事を無意識的にも知っていたのですね。

 

ロストフ家は今回のモスクワ脱出の為に、周囲の領地からかき集めた30台の荷馬車を庭に待機させていました。

それは大変高価なもので、家来達にそれを高額で譲って欲しい。。との依頼が殺到していた状態でした。

しかし、ロストフ家は待遇が良かったし、伯爵の人柄のせいもある為か、使用人の逃亡も窃盗もありません。

使用人は、今、ロストフ家にとってもこの30台の荷馬車は何にも代え難いものと知っていますので、丁寧に断り続けるのですね。

そして、モスクワに取り残されそうになった士官達やその家来達も、「馬車に乗せて欲しい。。」と懇願に来ます。

執事は、その全員を助ける事は到底出来ないし、ロストフ家の家族の安全と資産を守るのが自分の使命とばかりに不本意ではあるものの、断るのですね。

 

そこへ丁度老伯爵がやって来ます。

人の良い彼は負傷兵や従卒に会えたのを嬉しそうにニコニコします。

それで、士官は伯爵に直々「馬車に乗せてください」と哀願するのですね。。

伯爵は、ちょっと戸惑いながらも執事に「手配しなさい」と命じます。

気がつけば、あたり中負傷兵やその家来達が取り囲んでいました。。

伯爵は「あの人達を助けるしかない。荷物はまた、後で買うこともできる」と、ドレスや美術品、宝石類。。。それを下ろして、負傷兵達をなるべく荷馬車に乗せる様に命じます。

 

それを知った伯爵夫人は、夫の人の良さがもうおバカの領域だと怒ります。

伯爵は、それが聞き苦しんだって、と言わんばかりに無言で部屋を出てゆきます。

ナターシャが心配そうに父の後を追うのでした。

そこへ。。あの(がめつい)ベルグ(長女ヴェーラの夫)がやって来ます。。